『古事記』および『日本書紀』正伝によれば、葦原中国平定のために[[高天原]]から遣わされた[[天若日子]]が、[[大国主神]]に取り入ってあわよくば葦原中国を自分のものにしようと目論み、その娘である高比売命と結婚した。[[天若日子]]が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、高比売命の泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いた[[天若日子]]の父の天津国玉神や[[天若日子]]の妻子らは葦原中国に降臨し、[[天若日子]]の喪屋を建て殯を行った。そこに[[阿遅鉏高日子根神]]が訪れたが、その姿が[[天若日子]]にそっくりであったため、天津国玉神や妻子らは[[天若日子]]が生き返ったと喜んだ。[[阿遅鉏高日子根神]]は穢わしい死人と間違えられたことに怒り、喪屋を[[神度剣|大量]]で斬り倒し、蹴り飛ばして去って行った。高比売命は、[[阿遅鉏高日子根神]]の名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』正伝にはない)。『日本書紀』の第一の一書では、[[天若日子|天稚彦]]の妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみ下照媛の名が登場し、[[阿遅鉏高日子根神|味耜高彦根神]]の妹であるとしている。
=== 天若日子の項より ===
しかし、天若日子は[[大国主神]]の娘[[下照媛|下照比売]](シタテルヒメ)と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。そこで[[天照大御神]]と[[高御産巣日神]](タカミムスビ)は雉の鳴女(ナキメ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた[[天探女|天佐具売]](アメノサグメ)が、不吉な鳥だから射殺すようにと天若日子に勧め、彼は遣わされた時に高皇産霊神から与えられた弓矢([[天羽々矢]]と[[天之麻迦古弓]])で雉を射抜いた。
その矢は高天原まで飛んで行った。その矢を手にした高皇産霊神は、「天若日子に邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とす。すると、その矢は寝所で寝ていた天若日子の胸に刺さり、彼は死んでしまった。
天若日子の死を嘆く[[下照媛|下照姫]]の泣き声が天まで届くと、天若日子の父の天津国玉神は下界に降りて葬儀のため喪屋を建て八日八夜の殯をした。下照姫の兄の[[阿遅鉏高日子根神]](アヂスキタカヒコネ)も弔いに訪れたが、彼が天若日子に大変よく似ていたため、天若日子の父と妻が「天若日子は生きていた」と言って抱きついた。すると[[阿遅鉏高日子根神]]は「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、[[神度剣|大量]]を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見の喪山だという。
== 系譜 ==