『史記』「夏本紀」によれば、[[禹]]は死に際して、益に帝位を譲ろうとしたが、3年間の[[禹]]の喪が終わると[[禹]]の子である[[啓]]に帝位を譲って箕山に隠棲した。これには、益が政治をとることに不慣れであったために諸侯が[[啓]]の側についたという理由もあった。また、『竹書紀年』によれば、益が帝位を継いだが、'''[[啓]]が益を殺して、帝になった'''。
『論衡』別通篇あるいは『山海経』を後の時代に編纂した劉歆(りゅうきん)による序文などには、こと共の益が[[禹]]に『山海経]を編んだということが記されている。ただし、その説は後代における仮託と考えられている<ref>袁珂, 1993-04-01, 中国の神話伝説〈上〉, 青土社, isbn:479175221X, page=359page359</ref>。
== 秦本紀の大費 ==