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、 2022年9月26日 (月) 00:00
'''羿'''(げい、ピン音, Yì, イー)は、中国神話に登場する人物。'''后羿'''(こうげい、ピン音, Hòuyì, ホウイー)、'''夷羿'''(いげい)とも呼ばれる。弓の名手として活躍したが、妻の[[嫦娥]](姮娥とも書かれる)に裏切られ、最後は弟子の[[逢蒙]]によって殺される、悲劇的な英雄である。
羿の伝説は、『楚辞』天問篇の注などに説かれている太陽を射落とした話(射日神話、大羿射日)が知られるほか、その後の時代の活躍を伝える話(夏の時代の羿の項)も存在している。名称が同じであるため、前者を「大羿」、後者を「夷羿」や「有窮の后羿」と称し分けることもある。その大羿は中国神話最大の英雄の一人である。
日本でも古くから漢籍を通じてその話は読まれており、『将門記』(石井の夜討ちの場面)<ref>梶原昭路 校注 『将門記』 平凡社<東洋文庫> 1975年 227-228頁</ref>や『太平記』(巻22)などに弓の名手であったことや9個あった太陽の内8個を射落としたことが引用されているのがみられる。
== 堯の時代の羿 ==
天帝である[[帝俊|帝夋]]([[嚳]]ないし[[舜]]と同じとされる)には[[羲和]]という[[妻]]がおり、その間に[[太陽]]となる10人の[[息子]]([[火烏]])を産んだ。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた<ref>[[袁珂]] 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、[[青土社]]、[[1993年]] 289-296頁</ref>。ところが[[堯|帝堯]]の時代に、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。帝夋は羿に紅色の弓(彤弓)と白羽の矢を与えた<ref>『[[山海経]]』広注 巻十八「帝夋賜羿彤弓素矰」郭璞云:「彤弓、朱弓。矰、矢名、以白羽羽之。外伝:『白羽之矰、望之如荼』也」</ref>。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる<ref>松村武雄 編 『中国神話伝説集』 [[社会思想社]]<[[現代教養文庫]]> 1976年 15頁</ref>。
その後も羿は、各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの悪獣([[窫窳]]・[[鑿歯]]・[[九嬰]]・[[大風]]・[[修蛇]]・[[封豨]])を退治し、人々にその偉業を称えられた<ref name="悪獣">袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 298-302頁</ref>。
=== 不老不死の薬 ===
自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり<ref name="悪獣" />、羿と妻の{{読み仮名|嫦娥|じょうが}}を神籍から外したため、彼らは[[不老不死]]ではなくなってしまった。羿は[[崑崙山]]の西に住む[[西王母]]を訪ね、不老不死の薬を2人分もらって帰るが、嫦娥は薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥は羿を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して[[月]]([[月宮殿|広寒宮]])へしばらく身をひそめることにする。しかし、羿を裏切ったむくいで体は[[ヒキガエル科|ヒキガエル]]になってしまい、そのまま月で過ごすことになった<ref>袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 314-320頁</ref><ref>松村武雄 編 『中国神話伝説集』 社会思想社<現代教養文庫> 1976年 17頁</ref>([[嫦娥奔月]]の項も参考)。
なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「[[満月]]の晩に月に[[団子]]を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び[[夫婦]]として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある。
=== 逢蒙殺羿 ===
その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の[[逢蒙]](ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、ついに羿を撲殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」(逢蒙殺羿<ref>『[[孟子 (書物)|孟子]]』に「逢蒙殺羿、羿也有過」という文がある。</ref>)と言うようになった<ref>袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 322-325頁</ref>。
== 夏の時代の羿 ==
別に伝えられているのは、『路史』夷羿伝や『[[春秋左氏伝]]』などにあるもので[[夏 (三代)|夏]]王朝を一時的に滅ぼしたという伝説である。こちらの伝説ではおもに后羿(こうげい)という呼称が用いられている<ref>[[市村瓚次郎]] 『東洋史統』1巻 [[冨山房]] [[1940年]] 50頁</ref>。堯と夏それぞれの時代を背景にもつ2つの伝説にどういった関わりがあるのかは解明されていない部分がある<ref>[[内藤虎次郎]] 『支那上古史』 弘文堂書籍 [[1944年]] 66-67頁</ref>。[[白川静]]は、後者の伝説は羿を奉ずる部族が、夏王朝から領土を奪ったことを示しているとしている。
后羿は子供の頃に親とともに山へ薬草を採取に出かけたが山中ではぐれてしまい、'''楚狐父'''(そこほ)(『[[帝王世紀]]』では'''吉甫''')という[[狩猟|狩人]]によって保護される。楚孤父が病死するまで育てられ、その間に弓の使い方を習熟した。その後、弓の名手であった'''呉賀'''(ごが)からも技術を学び取り、その弓の腕をつかって羿は勢力を拡大していったとされる。
[[太康 (夏)|太康]](夏の第3代帝)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。羿は、武羅・伯因・熊髠・尨圉などといった者と一緒に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。羿は王として立ち、諸侯を支配下に置くこととなる。しかしその後の羿は、[[伯封]]を殺し、その母である[[玄妻]]を娶り<ref>『[[春秋左氏伝]]』[[昭公 (魯)|昭公]]二十八年「昔有仍氏生女、黰黒而甚美、光可以鑑。名曰玄妻。楽正后夔取之、生伯封。実有豕心、貪惏無饜、忿纇無期、謂之封豕。有窮后羿滅之、夔是以不祀」</ref><ref>『[[楚辞]]』天問「浞娶純狐、眩妻爰謀、何羿之射革、而交呑揆之」</ref>、{{読み仮名|[[寒浞]]|かんさく}}という奸臣を重用し、武羅などの忠臣をしりぞけ、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、最後は玄妻と寒浞によって相王の8年に殺されてしまった。
== 関連項目 ==
* [[嫦娥]]
* [[玄妻]]
* {{ill2|天狗 (中国)|zh|天狗 (中國)}} - 月と太陽を食べて日食と月食を起こす、9つの太陽を撃ち落とした羿の飼ってた猟犬。嫦娥の残した薬を舐めて巨大化・狂暴化し嫦娥を追いかけて天に上った。日食と月食を止めさせるため地上では爆竹や銅鑼や太鼓を打ち鳴らすこととしている。
== 参照 ==
{{デフォルトソート:けい}}
[[Category:中国神話]]
[[Category:黄帝]]