天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の[[阿加流比売神]]であるという<ref name="古事記p.275-278"/>(大阪府大阪市の比売許曾神社に比定)。
天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。そして多遅摩母呂須玖から[[神功皇后|'''息長帯比売命]](神功皇后:第14代[[仲哀天皇]]皇后)に至る系譜を伝える(系図参照)。また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、'''(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)に至る系譜を伝える<ref group="私注">系図では多遅摩母呂須玖の子孫の「'''葛城'''之高額比売命」が息長宿禰王の妻となり神宮皇后を生んだ、とされている。要は葛城氏の先祖は田島氏(但馬氏)で、その先祖は天之日矛という新羅の王子である、という主張の系図であると思う。'''葛城賀茂氏の先祖は新羅の王子である'''。そして、'''自分達から皇祖の偉大な太母である神宮皇后は生まれたのだ。自分達が皇室の最大の先祖を出した一族である'''。と言いたいがための天之日矛では? と思う管理人がいる。お手盛りで自分達を褒め称えるのは大得意なカモカモ・・・じゃなくて、賀茂氏の先祖が渡来人であることを示唆する重要な記述であると考える。</ref>。また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、
* 珠 2貫
* 浪振る比礼(なみふるひれ)
* 奥津鏡(おきつかがみ)
* 辺津鏡(へつかがみ)
であったとする。そしてこれらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるという<ref name="古事記p.275-278"/>([[兵庫県]][[豊岡市]]の[[出石神社]]祭神に比定)。『古事記』では、その後続けてこの伊豆志大神についての物語が記される。(兵庫県豊岡市の出石神社祭神に比定)。『古事記』では、その後続けてこの伊豆志大神についての物語が記される。
=== 風土記 ===
==== 播磨国風土記 ====
[[File:Iwajinja-b.jpg|thumb|280px|right|{{center|伊和大神を祀る[[伊和神社]]([[兵庫県]][[宍粟市]])}}]]
『[[播磨国風土記]]』では、天日槍について次のような地名起源説話が記されている。
* [[揖保郡]]揖保里 粒丘条