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、 2022年9月20日 (火) 19:01
'''禹'''(う)は、中国古代の伝説的な帝で、夏朝の'''創始者'''。名は'''文命'''(ぶんめい)、諡号は'''禹'''、別称は'''大禹'''、'''夏禹'''、'''戎禹'''ともいい、姓禹光吉は'''姒'''(じ)。姓・諱を合わせ姒文命(じぶんめい)ともいう。夏王朝創始後、氏を'''夏后'''とした。黄河の治水を成功させたという伝説上の人物である<ref name="uemura2" />。
== 概要 ==
かつて中国は禹州あるいは禹城と呼ばれ、禹は中国の古代神話あるいは伝説上の人物として知られる<ref name="uemura2">植村善博, 禹王と治水の地域史, 古今書院, 2019, page2</ref>。
禹の父は[[鯀]](こん)という。『[[漢書]]』律暦志によれば、鯀の五世の祖は[[三皇五帝#五帝|五帝]]の一人である帝[[顓頊]]であり<ref>『漢書・律暦志』「顓頊五代而生鯀」</ref>、禹は黄帝の雲孫(八世の孫)にあたる(禹は舜の族父)。
また、鯀の父は帝顓頊であるという説もある<ref>『世本四種』「昌意生顓頊,顓頊生鯀」</ref>。従ってこの場合、禹は帝顓頊の孫にあたる。さらに、帝顓頊は同じく五帝の一人の[[黄帝]]の孫であるという説もある。この場合禹は黄帝の玄孫(四世の孫)にあたる(禹は舜の族高祖父、堯の同輩、堯は舜の族高祖父)<ref>『五礼通考』「禹者,黄帝之玄孫而顓頊之孫也」</ref><ref>『軒轅黄帝伝』「舜有虞氏,黄帝<u>九代孫</u>......夏禹亦黄帝之<u>玄孫</u>也......殷湯,黄帝十七代孫」</ref><ref>『四川通志』「夏大禹黄帝五世孫【黄帝生昌意,昌意生顓頊,顓頊生鯀,鯀生禹】」</ref>。
[[塗山氏女|塗山氏の女]]を娶り、[[啓]]という子をなした。
禹は卓越した政治能力を持っていたが、それでいて自らを誇ることはなかったという人徳を持ち、人々に尊敬される人物であった。
また、禹は本来父の鯀と同一神であり、龍蛇の姿をした神だったという説もある<ref>御手洗勝『古代中國の神々』[[創文社]]1984年、131,134頁。
</ref>。
=== 禹の治水事業 ===
帝[[堯]]の時代に、禹は治水事業に失敗した父の後を継ぎ、[[舜]]に推挙される形で、黄河の治水にあたった。父の鯀は堤防を固定し、高地を削って低地を埋める「湮」と呼ばれる方法を用いた<ref name="uemura3">{{cite|和書|author=植村善博|title=禹王と治水の地域史|publisher=古今書院|year=2019|page=3}}</ref>。しかし、鯀は9年経っても成果を上げることができなかった<ref name="uemura2" />。子の禹は放水路を作って排水を行う「導」と「疏」と呼ばれる方法を用いて黄河の治水に成功したという<ref name="uemura3" />。
『[[列子]]』楊朱第七によれば、このとき仕事に打ち込みすぎ、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったという。しかしこの伝説は、元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果うまれた物語だとされる。『[[荘子 (書物)|荘子]]』盗跖篇巻第二十九には「堯は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」とあり『[[荀子]]』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とある。[[白川静]]は『[[山海経]]』にみえる魚に「偏枯」という表現が使われていることから、禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた。
そしてこの「偏枯」という特徴を真似たとされる歩行方法が'''禹歩'''であり、半身不随でよろめくように、または片脚で跳ぶように歩く身体技法のことを言う。禹歩は[[道教]]や中国の民間信仰の儀式において巫者が実践したやり方であり、これによって雨を降らすことができるとか岩を動かすことができるとか伝えられている。日本の呪術的な身体技法である[[反閇]](へんばい)も『[[下学集]]』などの中世の辞書では禹歩と同一視されているが、必ずしも同じであったわけではないらしい。
『太平広記』の中に記載する「神(瑶姫)は禹に鬼神を召喚する本を贈る」<ref>『太平広記』「有巫山焉,峰岩挺抜,林壑幽麗,巨石如壇,留連久之。時大禹理水,駐山下。大風卒至,崖振谷隕,不可制。因与夫人相値,拝而求助。即勅侍女,授禹策召鬼神之書,因命其神狂章、虞余、黄麾、大翳、庚辰([[応竜]])、童律、巨霊等助禹,斫石疏波,決塞導阨,以循其流」</ref>。
『山海経広注』に記されている禹による'''無支祁'''([[孫悟空]]の原型)との交戦の描写には具体的な竜としては[[応竜]]が禹に加勢しており、最後に捕らえられた<ref>『山海経広注』「『岳瀆経』曰:堯九年,無支祁為孽,応竜駆之淮陽亀山足下,其後水平」</ref>。
その後も禹は、人々の生活をおびやかしていた稀世の悪獸[[相柳]]を退治し、人々にその偉業を称えられた。
=== 夏王朝創始 ===
禹は舜から帝位の禅譲を受けて夏王朝を開いた<ref name="uemura3" />。
禹は即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも[[朝貢]]を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて[[九州 (中国)|九州]]を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。
[[竹書紀年]]によれば、45年間帝であったとする。また、今本竹書紀年によれば、8年間帝であったという<ref>『今本竹書紀年注疏』「八年春,会諸侯于会稽,殺防風氏......秋八月,帝陟于会稽」</ref>。さらに、史記によれば、10年間帝であったという<ref>『史記』「十年,帝禹東巡狩,至于会稽而崩」</ref>。[[浙江省]][[紹興市]]の[[会稽山]]に大禹陵がある。
中国が1996年から1999年にかけて実施した「[[夏商周年表プロジェクト]]」に依れば、禹の夏王朝創始は紀元前2071年、王朝滅亡は紀元前1598年であったとされる。ただし同プロジェクトは、4千年前の年代確定には数年の誤差は避けがたいため、切りのよい数字を取って夏は紀元前2070年から紀元前1600年まで、と定めた<ref>『夏王朝は幻では無かった』岳南著、朱権栄、加藤優子訳、柏書房2005</ref>。禹王伝説の時代に最古の王朝国家が存在したとみられるものの、禹の実在は未だ証明されていない<ref name="uemura3" />。
== 禹王信仰 ==
=== 治水の神としての崇拝 ===
中国では治水の英雄・[[開拓]]の[[英雄]]とされており教科書にも掲載される存在である<ref name="uemura2" />。[[浙江省]][[紹興市]][[越城区]][[稽山街道]]の大禹陵禹跡館には[[鋤]]を持つ禹を刻んだ「大禹治水」の[[レリーフ]]がある<ref name="uemura2" />。[[西遊記]]で[[孫悟空]]が使用する[[如意棒]]はもとは禹が[[江海]]の深さを計るのに使用した重りだという。
禹王信仰は[[日本]]にもみられる。
=== 禹王遺跡 ===
禹を祀る[[廟]]や[[祠]]あるいは禹の[[像]]や名(大禹、神禹、夏禹、文命)を刻んだ[[石碑]]や[[墓碑]]を総称して「禹王遺跡」という<ref name="uemura12" />。
日本では[[開成町|神奈川県開成町]]在住の郷土史家・[[大脇良夫]]が全国調査したところ、禹に関連する碑や像が、[[水害]]が多い地区を中心に107カ所見つかった。大脇らは[[2010年]]以降「禹王サミット」を開催し、[[2013年]]「治水神・禹王研究会」を発足させた<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/nkd/company/article/?DisplayType=1&ng=DGKKZO08982880R31C16A0BC8000&scode=4901&ba=1|title=大脇良夫「海を渡った治水神107の碑◇防災祈念し日本各地で古代中国の名君まつる◇」|work=|publisher=『[[日本経済新聞]]』朝刊(文化面)|date=2016年11月1日}}</ref>。[[2019年]][[3月]]末までに[[日本]]には133件あることが判明している<ref name="uemura12">{{cite|和書|author=植村善博|title=禹王と治水の地域史|publisher=古今書院|year=2019|page=12}}</ref>。
[[沖縄県]]には、以下の13件の禹王遺跡が確認されている。<ref>植村善博「沖縄における禹王遺跡とその歴史的意義」『鷹陵史学 第43号』佛教大学鷹陵史学会(2017年)</ref>
*[[国王頌徳碑]]([[1522年]])[[那覇市]]首里 [[首里城]]石門之東
*[[浦添城]]の前の碑([[1597年]])[[浦添市]]仲間2丁目 [[浦添グスク]]前
*[[安里橋]]之碑文([[1677年]])[[那覇市]]泊1丁目
*[[金城橋]]碑文([[1677年]])[[那覇市]][[繁多川]] [[安里川]]
*[[宇平橋]]碑([[1690年]])[[南風原町]][[山川]] [[長堂川]]
*[[勢理客橋]]碑([[1691年]])[[浦添市]]勢理客2丁目 [[小湾川]]
*[[重修石火矢橋]]碑文([[1697年]])[[豊見城市]][[豊見城]] [[饒波川]]
*[[重修真玉橋]]碑文([[1708年]])[[豊見城市]][[真玉橋]] [[国場川]]
*[[中山孔子廟]]碑記([[1716年]])[[那覇市]]久米2丁目
*[[報徳橋]]記([[1732年]])[[糸満市]][[照屋]] [[報徳川]]
*[[大清琉球国夫子廟]]碑([[1756年]])[[那覇市]]久米2丁目 旧孔子廟
*琉球国新建国学碑文([[1801年]])[[那覇市]][[首里当蔵町]]1丁目 [[国学]]
*[[改造池城橋]]碑文([[1821年]])[[北谷町]]北谷 [[白比川]]
[[群馬県]][[沼田市]]にも禹王碑が存在する。
== 禹が登場する作品 ==
*『童貞』([[酒見賢一]])
== 「禹」の字源 ==
「禹」の字は、古代文字の「[[九]]」と「[[虫]]」とを合わせた文字である。「九」は、伸ばした[[手]]の[[象形]]。「虫」は、もともと[[蛇]]や[[竜]]などの[[爬虫類]]の意味で、[[雄]]の竜の象形。即ち、「九」と「虫」とを合わせた「禹」は、雄の竜を掴むの象形で、[[洪水]]と[[治水]]の[[神話]]の[[神]]と伝えられる「[[伏羲]]と[[女媧]]」を意味する。<ref>[http://www.47news.jp/feature/47school/kanji/post_151.html 47NEWS‐47スクール‐漢字物語‐(73)「九」 身を折り曲げた竜]</ref>
== 日本に遺る「禹」の紋の法被==
大きな「'''禹'''」の紋が背に縫い付けられた法被が、[[慶長宗論]]、[[慶長法難]]で知られる[[法華宗]][[不受不施派]]の僧・[[日経]]の故郷(現在の[[茂原市]])に遺っている。その法被を着る祭には、黒戸の獅子舞がある。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Yu the Great}}
* [[羌]]
* [[裸民]]
* [[道教]]
* [[黄河の大洪水]]
* [[黄帝有熊氏]]
{{先代次代|[[夏 (三代)|夏]]帝室|初代<br>BC1900頃 - BC1890頃|'''黄帝有熊氏'''<br>[[舜]]|[[夏 (三代)|2代夏帝]]<br>[[啓|姒啓]]}}
{{DEFAULTSORT:う}}
[[Category:中国神話]]
[[Category:治水]]
[[Category:熊]]