== 治世 ==
[[百済]]の[[多婁王]]と蛙山城([[忠清北道]][[報恩郡]])をめぐって度々戦争があった。また[[73年]]、[[倭人]]が木出島百済の多婁王と蛙山城(忠清北道報恩郡)をめぐって度々戦争があった。また73年、倭人が木出島<ref>[[慶尚南道]][[蔚山広域市]]の目島と比定する説が有力。(→井上訳注1980)慶尚南道蔚山広域市の目島と比定する説が有力。(→井上訳注1980)</ref>に進入してきたが、角干(1等官の[[新羅#官位制度|伊伐飡]]の別名)の羽烏を派遣したが勝てず、羽烏は戦死した。[[77年]]には[[伽耶]]と戦って大勝した[[新羅#官位制度|阿飡]](6等官)の吉門を[[新羅#官位制度|波珍飡]](4等官)に引き上げた。に進入してきたが、角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏を派遣したが勝てず、羽烏は戦死した。77年には伽耶と戦って大勝した阿飡(6等官)の吉門を波珍飡(4等官)に引き上げた。
[[65年]]には後の金氏王統の始祖となる65年には後の金氏王統の始祖となる[[金閼智]](第13代[[味鄒尼師今]]の7世祖)を(第13代味鄒尼師今の7世祖)を[[瓠公]]が発見し、跡継ぎとして養育することとなった。実際には脱解尼師今の後は儒理尼師今の子が王位を継いで[[婆娑尼師今]]となり、儒理尼師今系の4人の王の後で脱解尼師今の孫が[[伐休尼師今]]が王位につくという複雑な継承となり、金氏の王統が直ちに立てられたわけではなかった。詳細は[[朝鮮の君主一覧#新羅]]の王系図参照。が発見し、跡継ぎとして養育することとなった。実際には脱解尼師今の後は儒理尼師今の子が王位を継いで婆娑尼師今となり、儒理尼師今系の4人の王の後で脱解尼師今の孫が伐休尼師今が王位につくという複雑な継承となり、金氏の王統が直ちに立てられたわけではなかった。
在位24年にして80年8月に死去し、首都金城(慶州市)の北壌井丘に葬られた。
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