=== リトアニア ===
13世紀から14世紀に至るまでリトアニアは固有の宗教を信仰していた<ref name="名前なし-1">{{Harvnb|三浦|, 2015|, 第四章 最後の異教国家 リトアニア}}</ref>。信仰の全容はいまだ明らかにされていない。だが、古代インド・ヨーロッパ神話の姿をとどめた、二元論的な世界理解のうえに作りあげられた精密かつ巨大な体系であり、根幹には自然崇拝と祖先崇拝が入り交じったアニミズムがあった。<ref name="名前なし-1"/>。16世紀のウプサラ大司教オラウス・マグヌス・ゴートゥスによる『北方民族文化史』では、ドイツの歴史家アルベルトゥス・クランチウスとポーランドのメルコヴィータの二人の説が紹介されている。彼ら歴史家たちによれば、異教時代のリトアニアでは、「三つの神、すなわち火と森と蛇が主として崇拝されていた」という16世紀のウプサラ大司教オラウス・マグヌス・ゴートゥスによる『北方民族文化史』では、ドイツの歴史家アルベルトゥス・クランチウスとポーランドのメルコヴィータの二人の説が紹介されている。彼ら歴史家たちによれば、異教時代のリトアニアでは、「三つの神、すなわち'''火と森と蛇'''が主として崇拝されていた」という<ref name="名前なし-1"/>。イギリスの研究者ローウェルは、「13世紀と14世紀に(リトアニア人が)聖なる三副対の神々を崇拝していた」と考えている。特に崇められていたのは、「雷の投げ手」で主神の[[ペルクナス]]である。[[スラヴ神話]]の[[ペルーン]]、[[ゲルマン神話]]の[[トール]]にあたる存在である。スラヴ神話やゲルマン神話とともに、[[世界樹]]としての樫の信仰に結びついていた。同時に、彼らは火も崇拝していた。イギリスの研究者ローウェルは、「13世紀と14世紀に(リトアニア人が)聖なる三副対の神々を崇拝していた」と考えている。特に崇められていたのは、「雷の投げ手」で主神のペルクナスである。スラヴ神話のペルーン、ゲルマン神話のトールにあたる存在である。スラヴ神話やゲルマン神話とともに、世界樹としての樫の信仰に結びついていた。同時に、彼らは火も崇拝していた<ref name="名前なし-1"/>。このように近隣諸民族の土着宗教と似てはいるが、リトアニアには彼らの宗教を固く守りぬく、政治力を持った強力な集団がいた。何より、支配階級の公たちが司祭の役割を果たしていた。即位時には宗教儀礼として供物を捧げた。ヴァイデロトと呼ばれる司祭階級は、ペルクナスに供物を捧げ、戦場では兵士たちを鼓舞した<ref name="名前なし-1"/>。彼らの儀礼では、神に生き物を捧げた。雄鶏や豚、雄牛ともに人間も供犠の対象であった。
12世紀中葉から13世紀にかけて、「[[北の十字軍]]」と呼ばれる騎士修道会の騎士たちが、キリスト教カトリックへの改宗を迫って西スラヴやバルト海東部沿岸地域へと侵攻、[[リーヴ人]]、レット人(ラトヴィア人)、エストニア人らを支配した。さらに[[ドイツ騎士修道会]]が加わり、布教に名を借りた、のちに[[ドイツ東方植民]]と呼ばれる激しい征服活動が行われた<ref name="名前なし-1"/>。リトアニアは国中でこの十字軍に対抗せねばならなかった。
1320年には、リトアニアは、捕えたサビアの領主、騎士ゲラルド・ルーデを重武装のまま火葬壇で焼いた。1389年にはメーメル(現[[クライペダ]])の司令官、騎士ニコラス・カッサウを重装備の騎馬姿で焼き殺した<ref name="名前なし-1"/>。また、騎士を煙で窒息死させることもあった<ref name="名前なし-2">{{Harvnb|山内|2011|タンネンベルクの戦い}}</ref>。騎士を供犠にする際に、重装備の騎馬姿であったのは、リトアニアの民衆に対して、彼らの火の信仰が、キリスト教の騎士などよりはるかに強いことを見せるためではないかと考えられる<ref name="名前なし-1"/><ref name="名前なし-2"/>。