==== 隻眼の人身御供 ====
近江国(現在の滋賀県)伊香郡には、水神に対して美しい娘の生贄を奉ったが、当地では生贄となる娘が片目であったとされる<ref>『新編 柳田國男集 第七巻』 筑摩書房 1978年 p.251 - p.252</ref>。柳田國男の『一つ目小僧その他』において、人身御供と隻眼の関係が説かれている。
柳田國男の「日本の伝説」<ref>柳田國男「日本の伝説」三国書房 昭和15年1940年12月20日95頁-96頁</ref>では、神が二つ目を持った者より一つ目を好み、一つ目の方が神と一段親しくなれると書いており、神の贄となる魚を通常の魚と区別するために片目にすることが紹介されている<ref group="私注">健常ではない者を生贄にする、という風俗は蛭子信仰と関連するのではないだろうか。健常ではない者を生贄にする、という風俗は蛭子信仰と関連するのではないだろうか。また、人身御供が不具であるという点は、生贄を祭祀の際にバラバラにした名残でもあるのではないか、と思う。</ref>。
==== 巫女・旅人の人身御供 ====
<blockquote>坂戸明神の話に移る。久しい間の伝承で神聖にされた、馬鹿にできぬ儀式がある。祭祀の儀式としての人身御供の存在説を主張する者の提供した、或は寧ろ提供し得る證據(しょうこ)物件の中で最も有力なるものである。
爼(マナイタ)と庖丁(ホウチョウ)、それから生きた實(実)物の人間、考えたばかりでも身の毛が立つ。爼と庖丁とが、果たして人間を神に供えた風習の痕跡だとしたらどうだ。犠牲を享(う)ける神は、鎮守の社に祀られる神である。捧げるものは氏子の部落である。捧げられる犠牲は、氏子の仲間から取らなければならぬ。人身御供という風習の言葉の中には、久しい間の慣例と云うことの意味が含まれているではないか。鎮守の社の祭祀は、年毎に行われる儀式である。人身御供と云うことが此祭祀の恒例となっている以上は、春秋二度とまで行かずとも毎年一度か少なくとも二三年に一度位は行わなければなるまい。凡ての伝説は、毎年のこととしているではないか(高木敏雄)<ref group="私注">坂戸明神は千葉県袖ケ浦市にある。今昔物語の中の猿神退治では、生贄を裸にしてまな板の上にのせて神に捧げる、という記述が出てくる。(今昔物語では生贄を直接殺すのは猿神自身とされている。)これは猿神に人身御供を捧げた祭祀の名残なのではないだろうか。そもそも坂戸って物部氏の一派の名字では? と管理人は思うわけですが。坂戸明神は千葉県袖ケ浦市にある。人身御供は選ばれて大きな俎板の上にのせられ、神官がこれを刀で切り裂く真似をして神に供えたという。ただし御供にされた者は必ず3年以内に死んだと言い伝えられているとのこと。今昔物語の中の猿神退治では、生贄を裸にしてまな板の上にのせて神に捧げる、という記述が出てくる。(今昔物語では生贄を直接殺すのは猿神自身とされている。)これは猿神に人身御供を捧げた祭祀の名残なのではないだろうか。(そもそも坂戸って物部氏の一派の名字では? と管理人は個人的に思うわけですが。)</ref></blockquote>
※「広報ふじ1967 ふるさとのでんせつ」1967年5月15日発行3頁で語られる「生贄の淵」の人身御供を伴う祭りは12年毎に行われると書かれており、諏訪神社で行われていたとされる人身御供の儀式は3年毎であったと考えられているため、人身御供を伴う祭りが、必ずしも毎年あったとされているわけではない。
* [http://iiduna.blog49.fc2.com/ 富士おさんぽ見聞録]より
** [http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-521.html 三股淵の生けにえ伝説](最終閲覧日:22-09-06)
* [https://ameblo.jp/books-fu-sa/ 未知の駅 總フサ]より
** [https://ameblo.jp/books-fu-sa/entry-12635989624.html 人身御供の儀式があった坂戸神社 袖ケ浦市坂戸市場](最終閲覧日:22-09-06)
== 関連資料 ==