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中国最古の地理書である『山海経』には「朝鮮」、『管子』には「発朝鮮」と言う国名、地名が書かれており、「朝鮮」という地名はすでに'''紀元前4世紀頃から有った'''事が確認されている。しかし具体的にいまのどのあたりを指していたのかは説がわかれるため、はたして特定の決まった地域を指していたのかどうかも判然としない。もちろん「檀君朝鮮」の記述はない。
 
== 現代の檀君朝鮮 ==
=== 後世の創作 ===
==== 『桓檀古記』 ====
1911年の偽書『桓檀古記』(かんだんこき)の主な檀君朝鮮関連を挙げる。
* 「三聖記」上編:桓雄までは『三国遺事』とほぼ同じ。桓雄の子ではない神人王倹が檀の木の岡に降り阿斯達を都とし朝鮮と号した。檀君王倹である。妻は河伯の娘。朝鮮から大扶餘と号した。47代2096年続いた。
* 「三聖記」下編:桓雄は桓因ではなく安巴堅の庶子。桓雄の息子の檀君王倹は有帳という名で別伝では倍達王倹といった。その子は居佛理のち18代居佛まで続いた。
* 「檀君世紀」:桓因の子檀君王倹の子孫47代世古列加までの史書
* 「太白逸史」の「三韓管境本紀」:桓雄の子ではない神人王倹が国を三韓に分け辰韓を治めた。桓雄は阿斯達を国とし朝鮮と号した。神人王倹は馬韓を熊伯多、番韓を蚩尤男(蚩尤の末裔という)に治めさせた。
 
この本は、超古代からの朝鮮半島の歴史を詳細に書き綴っているが、この本は書いたのが桂延壽という人であり、最初に出版されたのが1911年である点からも近代になって作られた話であるのが分かる。また、現行版の「桓檀古記」は1949年に書かれたもので、出版が1979年であった。内容をみると、清の嘉慶5年(1800年)に命名された「長春」という地名の表記があったり、男女平等、父権など、近代になってから登場した社会用語がそのまま使用されている等、明らかに20世紀に入ってから作られた偽書であることが確実視されている。要するに、明治にはいり日本が韓国を併合(日韓併合、明治43年)した後、朝鮮人の桂延壽が、日本の記紀を参考に、「朝鮮の方が日本の倍は古い歴史がある」と記述し出来あがったものであると考えられている。
 
==== 『揆園史話』 ====
上古、朝鮮半島から満州・モンゴル・中国北部に至る広大な版図を誇った帝国「檀君朝鮮」があったと伝える偽書。1972年に韓国国立中央図書館古書審議議員の李家源、孫寶基、任昌淳3人が17世紀の著であることを確認する認証書を公表したというが根拠不明であり、偽書説を覆すものではない。
== 成立時代 ==
北朝鮮学界の檀君朝鮮に関する見解は、「檀君神話は、'''たとえ幻想的な内容が盛り込まれていても、古朝鮮の建国過程が反映されている'''」というものであり、檀君神話にシャーマニズムの宗教観やトーテミズムの社会要素をみいだす李基白(이기백、西江大学)の主張に通じる<ref name="송영현9"/>。韓国の歴史教科書もこうした見解を反映しており、神話の人物である檀君を歴史的存在として認める2002年の第7次国定教科書改訂『国史』は、「神話は、その時代の人々の関心が反映されたものであり、歴史的な意味が込められている。これは全ての神話に共通する属性であり、檀君の記録も青銅器時代文化を背景にした古朝鮮の成立という歴史的事実を反映している」と述べている<ref name="송영현9">송영현, 2007-12, 북한역사교과서의 고대사서술의 문제, 西江大学, http://163.239.1.207:8088/dl_image/IMG/03//000000014617/SERVICE/000000014617_01.PDF, 2021-10-23, page9</ref>。
韓国の国立中央博物館では、檀君が建国したとされる古朝鮮について、「歴史上、朝鮮半島に誕生した最初の国家」だったと説明され、館内表示には、古朝鮮は紀元前2333年から紀元前108年まで続き、中国の主要王朝と「互角に渡り合えるほどの勢力があった」と書かれており、史実であるとしている。この証拠として、青銅の短剣や陶磁器など、古朝鮮時代のものとされる遺物が展示されており、この時代の朝鮮半島に人の営みがあったことは事実と主張している。しかし、細部については、その真偽を問われており、政治的な意図によって歪められていると歴史学者]指摘している。この時代の朝鮮半島に、国家と言えるだけの規模があったかは、信憑性を問われている韓国の国立中央博物館では、檀君が建国したとされる古朝鮮について、「歴史上、朝鮮半島に誕生した最初の国家」だったと説明され、館内表示には、古朝鮮は紀元前2333年から紀元前108年まで続き、中国の主要王朝と「互角に渡り合えるほどの勢力があった」と書かれており、史実であるとしている。この証拠として、青銅の短剣や陶磁器など、古朝鮮時代のものとされる遺物が展示されており、この時代の朝鮮半島に人の営みがあったことは事実と主張している。しかし、細部については、その真偽を問われており、政治的な意図によって歪められていると歴史学者は指摘している。この時代の朝鮮半島に、国家と言えるだけの規模があったかは、信憑性を問われている<ref name="Reuters"/>。
=== 韓国の歴史教科書における檀君朝鮮 ===
<blockquote>青銅器文化が形成され、満州遼寧地方と韓半島西北地方には、族長(君長)が治める多くの部族が現れた。檀君はこうした部族を統合し、古朝鮮を建国した。檀君の古朝鮮建国は、わが国の歴史が非常に古いことを示している。また檀君の建国事実と「弘益人間」の建国理念は、わが民族が困難に直面するたびに自矜心を呼び起こす原動力となった。その他にも檀君の建国神話を通して、わが民族が初めて建国した時の状況を推測することができる。熊と虎が登場することからは、先史時代に特定動物を崇拝する信仰が形成され、その要素が反映していることが知られる。また雨・風・雲を主管する人物がいることからは、わが民族最初の国家が農耕社会を背景に成立したことを推測することができる。(中学校、国史、p18)</blockquote>
 
=== 北朝鮮における檀君朝鮮 ===
北朝鮮の建国者たちは当初、自らの表面的な社会主義イデオロギーと整合しない壇君伝説を迷信だと軽蔑していたが、その後、北朝鮮当局者は、あらゆる手を尽くして檀君神話を利用し、北朝鮮を支配する金一族は壇君伝説を継ぐ者であるという考えを確立しようとしている<ref name="Reuters"/>。
 
金日成は檀君の末裔を自任し「祖先の加護により(抗日パルチザンの)勝利を得た」と演説している<ref name="産経新聞0608">野口裕之, https://www.sankeibiz.jp/express/news/140608/exd1406080002001-n4.htm, 【軍事情勢】中朝韓人民を支配する「神話」 恥ずかしいウソを堂々と…, 産経新聞, 産経新聞, 2014-06-08, https://web.archive.org/web/20140612144749/https://www.sankeibiz.jp/express/news/140608/exd1406080002001-n4.htm|archivedate=2014-06-12</ref>。
 
1993年8月31日の北朝鮮の日刊政府機関紙である『民主朝鮮』には以下のことが書かれている<ref>古田博司, 2005-06, 「相互認識」 東アジア・イデオロギーと日本のアジア主義 , 日韓歴史共同研究, 日韓歴史共同研究報告書(第1期), https://www.jkcf.or.jp/history/3/13-0j_furuta_j.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051026161523/https://www.jkcf.or.jp/history/3/13-0j_furuta_j.pdf , 2015-10-16, page270</ref>。
<blockquote>日本の荒唐無稽な建国神話によっても、やつらの国家起源年代は紀元前660年をさらに越えることはできないが、我々の檀君神話(朝鮮の建国神話)や檀君に関する記録によれば、朝鮮の建国年代は紀元前2300年まで遡る。かくして日本の歴史が朝鮮より1600年以上も短いものとなり、したがって自ずから文化もその分だけ劣ったものとなる。(日帝の檀君抹殺策動, 民主朝鮮, 1993年8月31日)</blockquote>
== 日本や中国やアメリカでの捉え方 ==
* ハワイ大学マノア校のMiriam T. Starkは、「箕子が本当に歴史上の人物として実在していたかもしれないが、檀君はより問題がある」と評する<ref>Stark, Miriam T.|title=Archaeology of Asia, 2008, John Wiley & Sons, https://books.google.com/books?id=z4_bT2SJ-HUC&pg=PA49&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false , isbn:978-1-4051-5303-4, page49</ref>。
*ブリガムヤング大学のMark Petersonは、「檀君神話は朝鮮が(中国から)独立しているように望んでいたグループでより多くの人気となった。箕子神話は朝鮮が中国に強い親和性を持っていたことを示したかった人たちに、より有用であった」と評する<ref>Peterson, Mark, Brief History of Korea, 2009, Infobase Publishing, https://books.google.co.jp/books?id=ByIo1D9RY40C&pg=PA5&redir_esc=y&hl=ja, isbn:978-1-4381-2738-5, page5</ref>。
 
* 韓洪九は、「韓国では、単一民族という神話が広く信じられてきた。1960年代、70年代に比べいくぶん減ってはきたものの、社会の成員の皆が檀君祖父様の子孫だというのは、いまでもよく耳にする話である。われわれは本当に、檀君祖父様という一人の人物の子孫として血縁的につながった単一民族なのだろうか。答えは『いいえ』です。檀君の父桓雄とともに朝鮮半島にやって来た3000人の集団や、加えて檀君が治めていた民人たちの皆が皆、子をなさなかったわけはないのですから。彼らの子孫はどこに行ってしまったのでしょうか。箕子の子孫を名乗る人々の渡来から、高麗初期の渤海遺民の集団移住にいたるまで、我が国の歴史において大量に人々が流入した事例は数多く見られます。一方、契丹・モンゴル・日本・満州からの大規模な侵入と朝鮮戦争の残した傷跡もまた無視することはできません。こうしたことを考えれば、檀君祖父様という一人の人物の先祖から始まったのだとする単一民族意識は、一つの神話に過ぎないのです<ref>韓洪九, 2003-12-17, 韓洪九の韓国現代史 韓国とはどういう国か, 平凡社, isbn:978-4582454291, pages68-69</ref>」「いろいろな姓氏の族譜を見ても、祖先が中国から渡来したと主張する帰化姓氏が少なくありません。また韓国の代表的な土着の姓氏である金氏や朴氏を見ても、その始祖は卵から生まれたとされ、檀君の子孫を名乗ってはいません。これは、大部分の族譜が初めて編纂された朝鮮時代中期や後期までは、少なくとも檀君祖父様という共通の祖先をいただく単一民族であるという意識は別段なかったという証拠です。また、厳格な身分制が維持されていた伝統社会では、奴婢ら賤民と支配層がともに同じ祖先の子孫だという意識が存在する余地はないのです。共通の祖先から枝分かれした単一民族という意思が初めて登場したのは、わが国の歴史においていくらひいき目に見ても大韓帝国時代よりさかのぼることはあり得ません」「国が危機に直面したとき、檀君を掲げて民族の求心点としたのは、大韓帝国時代から日帝時代初期にかけての進歩的民族主義者の知恵でした」と評する<ref>韓洪九, 2003-12-17, 韓洪九の韓国現代史 韓国とはどういう国か, 平凡社, isbn:978-4582454291, page76</ref>。
* 武田幸男, 2000-08-01, 朝鮮史, 世界各国史, 山川出版社, ISBN:978-4634413207、には、「もとは平壌地方に伝わった固有の信仰であろうが、仏教的および道教的要素が含まれ、また熊をトーテムとし、シャーマニズム的な面もうかがえる複合的な神語で、かなり整合性につくりあげられたかたちになっている。その民族性をうかがうには、有効かもしれないが、それをとおして、歴史的事実を追究するのは容易ではない」とする<ref name="藤田 2003 79"/>。
* 李鮮馥(이선복、Yi Seon-bok、ソウル大学)は、「われわれはよく、われわれ自身を檀君の子孫と称し、5000年の悠久な歴史をもつ単一民族であると称している。この言葉を額面どおり受け入れれば、韓民族は5000年前にひとつの民族集団としてその実体が完成され、そのとき完成された実体が変化することなく、そのまま現在まで続いたという意味になろう。しかしこの言葉は、われわれの歴史意識と民族意識の鼓吹に必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠に立脚した科学的で歴史的な事実にはなりえない」と述べている<ref>金, 2012, p52-53</ref><ref>이선복, 2003, 화석인골 연구와 한민족의 기원, 韓國史市民講座 Vol.32, 일조각, pages64-65</ref>。
* 李基白(이기백, 이기백)、西江大学)は、「天帝の息子である桓雄が人間になることに成功した熊女と結婚して檀君を産んだという記録は歴史ではなく神話です。神話はそれが創作された理由があり、その創作された理由をみつけるのが歴史家の使命です」「神話のなかから民族的自尊心をみつける必要性を探していた時代は過ぎ去った過去です。また、歴史が古ければ民族の自慢になるというものでもなく、神話を精神的玉座に奉っても民族意識が高まることもない」と述べている<ref name="月刊朝鮮"/>。
[[高橋亨 (朝鮮学者)|高橋亨]]は、「檀君を以て或は[[帝釈天|帝釈]]の孫となし、或は[[東明聖王|朱蒙]]となし、或は[[解夫婁王|夫婁]]の父となすは、何れも後世の添加せる[[粉飾]]にして、本伝説の原形は単に北朝鮮最初の君長に檀君なる者あり、[[妙香山]]に降りて神徳を以て民を治めたりと云ふに過ぎざるなり。果して然らば檀君は北朝鮮の伝説の祖王なれども、南朝鮮とは何らの関係なし。南朝鮮人は宜しく新羅の始祖[[赫居世居西干|赫居世]]を以て祖王となして崇拝し祠祭すべきものなり。[[大倧教|檀君教]]に於て檀君を以て全朝鮮民族の始祖と立つるは、尚史上其証拠を発見する能はざる所に属するなり」と述べており、「[[伝説]]が益々発展するに従て益々[[小説|小説的]]色彩に濃厚」となったのは、「後世の添加せる粉飾」であり、檀君を帝釈天の孫にするという発想は、仏教伝来後の脚色であって、檀君伝説が発生したと考えられている[[古朝鮮]]においてはありえないとする<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=98-100}}</ref>。
 
[[小田省吾]]は、「この[[伝説]]を読む時は、何人と雖も其の内容が[[仏教]]に関係のあるものであることは、直ちに知ることが出来るであらう…[[李珥|李栗谷]]は『檀君の首出文献稽うる無し』…[[李瀷|李星湖]]は『その説、皆信ずべからず。其の桓雄桓因等、荒誕棄つるべし』…[[安鼎福]]は『按ずるに東方古記等の書言ふ所の檀君の事皆荒誕不経、…其の称する所の桓因帝釈は法華経に出づ。其の他称する所は皆是れ僧談』と謂ひ、…{{仮リンク|韓致奫|ko|한치윤|label=韓致大淵}}…[[尹廷琦]]等、[[李氏朝鮮|李朝]]の学者は各時代を通じて、其の仏説に依つて[[捏造]]せられた取るに足らざることを言はないものはない位である。内地の学者の中でも、那珂博士の如き、白鳥博士の如き大家が、いづれも皆仏説より出でたるもので、取るに足らざることを論ぜられて居る…今日猶ほこの伝説が朝鮮人間に比較的強き信仰を以て、知識階級の間にも唱導せられて居るのは何故であるか」「李朝が高麗人の民心を得る政策としても、高麗人の信じ来たる檀君を尊崇して棄てなかつたことは、これ亦然るべきこと存ずるのである。併しながら[[韓国併合]]の結果、内鮮一家をなしたる今日に於て此の檀君崇拝を如何に取扱ふべきかは更に一箇の別問題となるのであつて、之は行政方面とも関係のあることであるから本篇に於ては陳述を見合はすことゝする」「なほ朝鮮では、箕子・衛満朝鮮の前に、今から四千年前、即ち[[支那]]でいへば[[堯]]と同じ時代に、檀君といふ神人が、始めて半島に国を建てて朝鮮といひ、平壌に都したといふ伝説もある。これを檀君朝鮮と称する。この伝説は、今から六百五十年程前、高麗の僧[[一然]]の撰つた三国遺事に記録されてあるが、正史には見えて居らぬ」として、李氏朝鮮の[[儒学者]]である[[李珥|李栗谷]]、[[李瀷|李星湖]]、[[安鼎福]]、{{仮リンク|韓致奫|ko|한치윤|label=韓致大淵}}、[[尹廷琦]]による檀君否定を朝鮮社会における社会通念ととらえた<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=103-105}}</ref>。
[[稲葉岩吉]]は、「[[崔南善|崔六堂君]]の近業に係る[[東亜日報]]所載の檀君論は、…わたくしの先年認めた檀君に関した一節もその引合に出されている。わたくしとしては、あの当時の考へを今も訂正する必要は感じてゐないけれども、何程か補足して置きたいと思ふ。([[安鼎福]]が編纂した『三国遺事』)によれば、[[東明聖王|朱蒙]]即ち高句麗の始祖東明王は、檀君の子であるといふことになるのである。[[三国史記]]にも何にも見あたらない。…しかしこれは新羅系の全盛時代では受入れらるゝ性質の記事ではないと思ふ。新羅は、…凡て天降姓であつた。檀君の子孫であるとの説話を伝へてゐないのみならず、高句麗即ち[[夫余|扶余系]]とは、全く別種の選民だといふ信念がたかまつてゐるからである。…新羅系の天降姓と檀君説話を調和することは、かなり艱難でなければならぬが、それにもまして問題視すべきは、これまでの鮮内の巨室名門のすべては、その祖先を[[支那]]本部の名族に託してゐる。今の鮮姓中に一として[[漢姓]]以外のものを見出さぬのも、その思想の影響であらう。檀君説話は構成されても、[[民族]]のおのおのの[[族譜]]とこれらとの調和は、さらに至難といはざるを得ない。日本にては土姓と客姓との別ありしこと、鮮内と同一であつたが、土姓は客姓を従属たらしめた。朝鮮は、これに反してゐる。新羅ですら、支那古代の[[少昊|少昊金天氏説]]をかついでゐるではないか」「附庸伝説(箕子伝説)より解放されて、独立した[[民族]][[信仰]]の中心伝説(檀君伝説)に驀進しつつある[[朝鮮民族|鮮人]]の今日は、慶賀すべきであるに違いないけれども、伝説は、どこまでも伝説であって歴史では無いということに、理解が無ければならない。伝説には、信仰が多半加味されているから、[[民族]]の将来を指示し、その生活を律するには、不足はないとしても、それだけでは、民族成立の由来をすら知ることが出来がたいのみならず、日本国家の一員であるという理解すら持つことが、不可能になる」「いかにしても、[[三国時代 (朝鮮半島)|三国]] - [[高句麗]]・[[百済]]・[[新羅]]の各々が、特色づけていた開国物語を、檀君伝説の下に並べることは出来ない」「([[朝鮮史編修会]]の)修史は当面の政治に都合のよい様に、曲筆さるゝに決つてゐやう。従来の日本学者の史筆を見るに、[[政権]]や国家のためといつたら、随分思ひきつて曲筆してゐるから、今回もお多分に漏れまい。つまり簡抜されて委員となつた人々は政権の爪牙となつて、[[朝鮮の歴史|朝鮮史]]の真相を抹殺するやうなものだ。現に鮮人間には、彼等が大切に護持してゐる壇君すら、為めに脅威を受けてゐると云つてゐるではないかと、斯いいふやうな非難を加へるものがある。…朝鮮人の常に護持してゐる壇君についての想像も、全く誤解であり、即断である。壇君崇拝は、輓近著しく発達し、殆んど全鮮の空気を圧してゐるのであるが、私の考へを申すと、檀君の史的価値は内外学者の研究に期待さるべき筈のもので、私ども修史に面した急務と云ふべきではない。私どもの立場からすれば、今日の鮮人が壇君を護持し、崇拝の度を加へてゐるといふことが、既に壇君史の一部を構成してゐる歴史であると思ふ。抹殺などは思ひもよらぬことである。たゞ壇君その人が鮮人の言の如く、[[堯|唐堯]][[舜|虞舜]]の間、即ち今より四千二百年前に降生したといふ主張を、歴史が無条件にとり入れてよいか、どうかは、一に委員会の審議に待たざるを得ない」「朝鮮の[[青年党]]が、その伝来の附庸伝説であつた箕子崇拝から解放せられて、檀君崇拝てふ民族自決の伝説に進みつゝあることの消息は、容易に認め得べきものである。従来は、[[青年]]方面のみに限られてゐた傾向といつてもよいのであるが、今日となりては、檀君伝説は、全鮮の空気を圧してゐる。乃ち青年はいふに及ばず、老人党までも、敢て箕子伝説を云々するものが、薄らいで来たやうに感ぜられる」と述べている<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=106-109}}</ref>。
[[青柳南冥]]は、「[[スサノオ|素盞嗚尊]]は、…朝鮮王国を開いて、其子[[五十猛神]]の御代に、完全なる[[君主制|君主権]]を有する檀君と為られたのではあるまいか」「内鮮両民族の祖先は、曾て同一の地点に同一の生活を営み、且つ同一の[[信仰]]の下に噞喁して居つたことがわかる」「檀君は日本の天降神族と同族であつて、…日韓両地の生民が、同じく天降神族の神話を、朦朧ながら後世に[[伝説]]し得たるを悦ばざるを得ない。…現今朝鮮の人々が、檀君神を崇拝することは我祖先諸神の分家の神を崇拝するのであつて、日韓の併合玆に於てか、大に其の意味深宏なるを感ずるのである」とし、檀君と[[日本神話]]を同一視している<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=110}}</ref>。

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