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、 2022年8月26日 (金) 15:30
'''涿鹿の戦い'''(たくろくのたたかい)は、古代中国の伝説上の戦いで、軒轅(後の[[黄帝]])が[[蚩尤]]を破った一戦である。
『史記』五帝本紀によれば、[[炎帝神農|神農氏]]の世が衰えたとき、諸侯が互いに侵略しあって百姓を虐げた<ref>以下この説明は『史記』「五帝本紀第一」による。吉田賢抗注『史記』一の29-31頁。</ref>。蚩尤はその中でひときわ強大であった。軒轅ははじめ[[炎帝神農|炎帝]]に仕えて戦ったが、後に帝と対立し、味方の諸侯を率いて[[阪泉の戦い]]で[[炎帝神農|炎帝]]を破った。続いて軒轅と[[蚩尤]]の争いになり、両軍は涿鹿の野で戦った。[[蚩尤]]は敗れて捕えられ、殺された。軒轅は諸侯に推戴されて帝となり、黄帝となった。
また、史記とは逆に涿鹿の戦いの後に[[阪泉の戦い]]があり、涿鹿の戦いは炎黄連合軍と蚩尤の最終決戦であるとする説も存在する。
黄帝を含めた五帝等の話は、もともと各地の様々な神話・伝説であったものを、戦国時代の人が時代順に並べる形式に整えて歴史にしたと考えられており<ref>堀敏一『古代の中国』29-33頁。加上説も参照。</ref>、この戦いも史実とは認めがたい。
『帝王世紀』によると、[[蚩尤]]が強くなり楡罔が住む空桑(陳留)を攻めたため、両者は涿鹿の野で戦い、炎帝(楡罔)が中冀で[[蚩尤]]を斬った。それ以降、中冀は「絶轡の野」と呼ばれるようになった。
== 参考文献 ==
*[[堀敏一]]『古代の中国』(「世界の歴史」第4巻)、講談社、1977年。
*[[吉田賢抗]]『[[史記]]』一(本紀)([[新釈漢文大系]])、明治書院、1973年。
== 関連項目 ==
* [[阪泉の戦い]]
== 参照 ==
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[[Category:中国神話]]
[[Category:炎黄闘争]]