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[[ファイル:Raijin3.png|thumb|350px300px|太陽神石刻。1999年湖北省秭帰県東門頭遺跡出土。高さ105cm、幅20cm,厚さ12cm。湖北文物考古研究所蔵。<ref>[http://abc0120.net/words/abc2007071401.html 考古学用語、太陽神石刻]</ref>。紀元前6000年頃?]]
B7000?~B6000?。揚子江中流域の古代文化。大渓文化の前身。
== 太陽神石刻 ==
細長い板状の石に、特異な姿をした人物像が刻まれ、その頭上には光り輝く太陽が象徴的に彫られている。また、人物の腰のあたりには、左右二つずつ円が彫られ、天体活動を表すものと思われる。ここに刻まれた人物は「太陽神」であると考えられ、城背渓文化の人々はこの石刻を使って、天に祈りをささげていたのであろう。中国における太陽崇拝の起源を探る上でも興味ふかい。出所:「世界四大文明・中国文明展」<ref>[http://abc0120.net/words/abc2007071401.html 考古学用語、太陽神石刻]</ref>
== 民俗学的私的考察 ==纏められるときに、備忘録的に残しておかないと後で後悔しそうなので、このページを作りました。ほぼ、多サイトの内容を纏めたメモといえます。
人物の頭の上に太陽が描かれていたからといって、それをすぐに「太陽神」と決めつけてしまって良いのだろうか、とやや疑問に感じる。候補としては、'''太陽神、雷神、あるいは後の盤古となるような巨人'''が考えられ得ると思います。梅原、安田の説によると、後の大渓文化で、王というものが登場したのではないか、とのことである<ref>長江文明の探求、梅原猛、安田喜憲共著、新思索社、p110-111</ref>。支配者としての世襲の男性の王の出現と身分の階級化の開始は、古代中国の父系化の開始ともいえる。
城背渓文化は、長江中流域で栄えた新石器時代早期の文化である。この細長い板状の石には特異な姿をした人物像が刻まれ、その頭上には光り輝く太陽が象徴的に彫られている。また、人物の腰のあたりには、左右二つずつ円が彫られ、天体活動を表すものと思われる。ここに刻まれた人物は「太陽神」であると考えられ、城背渓文化の人々はこの石刻を使って、天に祈りをささげていたのであろう。中国における太陽崇拝の起源を探る上でも興味ふかい。出所:「世界四大文明・中国文明展」城背渓文化が'''母系文化'''であって、「太陽神」=「女神」であれば、石刻の人物は、'''太陽神の下位にくる雷神、樹木神、盤古のような世界の基礎となる巨人'''が考え得る。'''父系文化'''がすでに開始されていて、男性が支配者であれば石刻の人物は神々の頂点に位置する'''太陽神'''の可能性が高くなる、と考える。 ただし、個人的には'''太陽神'''で良いのではないか、と思う。何故なら石刻の人物は、髪の毛がほとんどなく、「'''弁髪'''」であるように見えるし、それは中国北東部の住人の文化だからである。人物は、'''北方から攻め込んできて人々を征服した支配者の象徴'''ではないだろうか。とすれば、'''武器として雷を持つ太陽神'''とみなすことが妥当であり、しかも支配者による父系文化がすでに開始されていた証拠ともいえる。後に、「'''弁髪文化'''」である夏家店上層文化を中国東北部で作り上げた人々のY染色体のハプログループはハプログループO2やハプログループC2だった。ハプログループO2はミャオ族に関連すると共に、日本人にも見られる。父系の支配者層に、中国東北部出身の遺伝子が入りこんでいることは興味深い、といえなくはないだろうか<ref>ただし、日本人に多いのは中国東北部発(夏家店上層文化)のハプログループO1b2とのことである。これはごくわずかではあるが中国南部でも認められ、やはりその起源は興味深い。</ref>。
== 参考文献 ==
* [http://home.t02.itscom.net/izn/ea/index.html 風篁堂、中国、先史時代、長江](最終閲覧日:22-08-18)
* [http://abc0120.net/words/abc2007071401.html 考古学用語、太陽神石刻](最終閲覧日:22-08-18)
* 長江文明の探求、梅原猛、安田喜憲共著、新思索社、p110-111
== 参照 ==

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