時の人はこの情景を以下のように和歌に詠んだ。
{{quotation|<blockquote>や雲立つ 出雲梟帥(いづもたける)が 佩ける大刀 黒葛(つづら)多(さは)巻き さ身無しに あはれ}}</blockquote>
飯入根の弟と子供は、このことを詳しく朝廷に訴えた。その結果、振根は天皇の遣わした将軍、[[吉備津彦]](きびつひこ)と[[武渟川別]](たけぬなかわけ)によって殺されてしまった。飯入根の弟と子供は、このことを詳しく朝廷に訴えた。その結果、振根は天皇の遣わした将軍、吉備津彦(きびつひこ)と武渟川別(たけぬなかわけ)によって殺されてしまった。
その後、出雲臣はしばらく出雲大神を祭らぬままでいたが、[[丹波国]][[氷上郡]](現在の[[兵庫県]][[丹波市]][[氷上町]]あたり)の女性で[[氷香戸辺]](ひかとべ)という人が、皇太子に自分の幼子が歌っている歌を伝え、その結果、天皇は鏡を祭らせた、というその後、出雲臣はしばらく出雲大神を祭らぬままでいたが、丹波国氷上郡(現在の兵庫県丹波市氷上町あたり)の女性で氷香戸辺(ひかとべ)という人が、皇太子に自分の幼子が歌っている歌を伝え、その結果、天皇は鏡を祭らせた、という<ref>『日本書紀』崇神天皇60年7月14日条</ref>。
この8年後に崇神天皇は崩御している。
『書紀』巻第六によると、(上記の出来事から34年後の)[[垂仁天皇]]26年には、天皇の命で[[大連]]の[[物部十千根]](もののべ 『書紀』巻第六によると、(上記の出来事から34年後の)垂仁天皇26年には、天皇の命で大連の物部十千根(もののべ の とおちね)が、出雲に神宝の検校をしにいったと伝えられている<ref>『日本書紀』垂仁天皇26年8月3日条</ref>。
== 関連項目 ==