『釈日本紀』に引く『尾張国風土記』逸文では'''阿麻乃彌加都比女'''の祟りとする。それによると誉津別皇子は7歳になっても話すことができなかったが、皇后の夢に'''多具の国の神'''・阿麻乃彌加都比売が現れて、「自分にはまだ祝(はふり)がいないので、自分を祭祀してくれる者を与えてくれたなら、皇子は話せるようになり、寿命も延びるであろう」と言った。そこで天皇は日置部らの祖・建岡君にこの神がどこにいるかを占わせた。建岡君は美濃国の花鹿山に行き、榊を折って鬘(髪飾り)を作り、ウケイして「この鬘の落ちたところに神はいらっしゃるだろう」と言った。すると鬘は空を飛んで尾張国丹羽郡に落ちたので、建岡君は同地に社を建て、また同地も鬘が訛って阿豆良(あづら)の里と呼ばれるようになったとある。多具の国とは、出雲国の多久川流域とされ、また阿麻乃彌加都比売は『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷にみえる天甕津日女(もしくは楯縫郡神名樋山の項の天御梶日女)と同神とされる。天御梶日女は葦原色許男大神の子である阿遅鉏高日子根神の妻とされ、阿遅鉏高日子根神は『出雲国風土記』において、誉津別皇子と同じく'''大人になっても子供のように泣き止まなかった'''とする伝承が掲載されている。
多久町の多久神社は宍道湖の西側にあり、出雲大社はそれよりも更に西にあって、海の近くにある。両者に似たような伝承があることは興味深い(管理人)。
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