== 祭神 ==
[[祭神]]は御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)祭神は'''御稲御倉神'''(みしねのみくらのかみ)<ref name="ic"/>。御稲御倉の[[守護神]]である。御稲御倉の守護神である<ref name="ic"/><ref name="gk"/>。[[神宮式年遷宮]]に伴って社殿が建て替えられる際には、御稲御倉神は一時的に外幣殿に遷座する。神宮式年遷宮に伴って社殿が建て替えられる際には、御稲御倉神は一時的に外幣殿に遷座する<ref>伊勢文化舎 編(2013):6ページ</ref>。
平安時代の『大治御形記』には[[平安時代]]の『大治御形記』には[['''保食神''']](うけもちのかみ)とあり、[[鎌倉時代]]の『神名秘書』では(うけもちのかみ)とあり、鎌倉時代の『神名秘書』では[[宇迦之御魂神|'''ウカノミタマ''']]とする<ref name="gs P155-156">櫻井(1970):155 - 156ページ</ref>。
== 歴史 ==
[[古代]]より存在したと考えられる古代より存在したと考えられる<ref name="gs"/>。調御倉(つきのみくら)・御塩御倉・鋪設御倉・御稲御倉・御稲御倉の4棟で1組として板垣外の西方に建っていたが、[[平安時代]]中頃より、外幣殿と4棟1組は外玉垣の内側に入った。調御倉(つきのみくら)・御塩御倉・鋪設御倉・御稲御倉・御稲御倉の4棟で1組として板垣外の西方に建っていたが、平安時代中頃より、外幣殿と4棟1組は外玉垣の内側に入った<ref>福山ほか(1975):228 - 229ページ</ref>。当時は神明造ではなく[[校倉造]]で、千木・鰹木はなかったようである。当時は神明造ではなく校倉造で、千木・鰹木はなかったようである<ref name="ss9">福山ほか(1975):229ページ</ref>。正宮の敷地内にあったので式年遷宮のたびに移動していたが、中世の末に4棟とも廃絶した<ref name="ss9"/>。
御稲奉下は[[禰宜]]・大内人ら4名が大物忌(おおものいみ)と大物忌父を伴って執行していた御稲奉下は禰宜・大内人ら4名が大物忌(おおものいみ)と大物忌父を伴って執行していた<ref name="gs"/>。この時の[[服装]]は、内宮で祭儀を行うのと同じ官給の明衣(きよぎぬ)であり、如何に重要な神社であったかが分かる。この時の服装は、内宮で祭儀を行うのと同じ官給の明衣(きよぎぬ)であり、如何に重要な神社であったかが分かる<ref name="gs"/>。奉下されたイネは大物忌の子らは[[臼]]で撞き、[[竈]](かまど)で蒸し、炊き上がった[[ご飯]]を[[笥]](け)に盛って神前に供された。奉下されたイネは大物忌の子らは臼で撞き、竈(かまど)で蒸し、炊き上がったご飯を笥(け)に盛って神前に供された<ref name="gs2"/>。御飯は内宮・荒祭宮・[[滝祭神]]に捧げられた。御飯は内宮・荒祭宮・滝祭神に捧げられた<ref name="gs2"/>。
[[天正]]年間([[1573年]] 天正年間(1573年 - [[1592年]])に4棟のうち、正宮の北西に御稲御倉のみ神明造で復興され、以後式年遷宮ごとに建て替えられた1592年)に4棟のうち、正宮の北西に御稲御倉のみ神明造で復興され、以後式年遷宮ごとに建て替えられた<ref name="ss9"/>。室町時代以降は御稲御倉で[[神嘗祭]]の織御衣(おりのみそ)がここで織られたので、御機殿の異名を持っていた。室町時代以降は御稲御倉で神嘗祭の織御衣(おりのみそ)がここで織られたので、御機殿の異名を持っていた<ref name="ss9"/>。
[[明治]]以降、御稲御倉神が祀られるようになり、[[1889年]](明治22年)には荒祭宮へ向かう道の途中に鎮座位置が固定された明治以降、御稲御倉神が祀られるようになり、1889年(明治22年)には荒祭宮へ向かう道の途中に鎮座位置が固定された<ref name="ss9"/>。
== 交通 ==
; 宇治橋前から
* 宇治橋から内宮(正宮)まで参道を進み、内宮の西側から荒祭宮へ向かう参道を進むと御稲御倉が鎮座する<ref name="ic"/>。付近には外幣殿(げへいでん)もある<ref name="ic"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [http://www.jingukaikan.jp/125mairi/m01/0113.html 御稲御倉(みしねのみくら)] - 財団法人伊勢神宮崇敬会
== 参照 ==
{{デフォルトソート:みしねのみくら}}
[[Category:日本神話]]
[[Category:女神]]