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峰山町吉原(かつての安村)に所在する[[式内社]]・[[稲代神社]]にまつわる伝承で「月輪田」が語られている<ref name=峰山郷土史下316p/>。稲代神社の文政5年の棟札には「稲苗代神社」と記載され、しばしば五箇の苗代村と混同されたため、月の輪田は古来、安村にあったとする説と苗代村にあったとする説がある<ref name=峰山郷土史下400p/>。21世紀初頭における'''月の輪田'''は、[[二箇]]から[[苗代]]に通じる道の東側に位置するが、20世紀に耕地整理で場所を移しており、神代の伝承地と同位置ではない。
月の輪田は、江戸時代には水田として使われた記録が残るが<ref name="産経20130603"/>、[[祟り]]があるとして[[地頭|領主]]<references ref group="注釈"/>江戸時代の峰山地域は[[京極氏#高知流 (丹後京極家)|京極家]]が治める[[峰山藩]]の一部であった。</ref>も[[年貢]]を課すのを忌避した<ref name=峰山郷土史下315p/>。また、耕作しないのも二箇・苗代の両村に祟りがあるといわれ、[[昭和|昭和時代]]前期には身を清めた二箇村の者が稲を育て、1斗2~3升の[[精米]]を[[初穂]]として伊勢の[[御師]]幸福出雲太夫に奉納し、藁はすべて田に戻して翌年の肥料としていた<ref name=峰山郷土史下315p>{{Cite book|和書|author= |title=峰山郷土史 下 |publisher=峰山町 |date=1963 |page=315 |isbn=}}</ref>。しかし、昭和30年代以降は[[耕作放棄地]]とした。
[[2013年]]([[平成]]25年)、丹後建国1300年を記念して地域の歴史を再認識しようと、京丹後市と二箇地区が月の輪田の復興を企画し、地域住民らが耕作を行っての[[古代米]]栽培が始まった。同年の田植え式では、[[京都府知事]]の[[山田啓二]]や地元区長らが、[[田の神#早乙女|早乙女]]姿の女性らとともに古代米の[[田植え]]を行い、秋には収穫した米を伊勢神宮に奉納した<ref name="産経20130603"/>。[[2014年]](平成26年)以降は、稲穂は約2週間、天日で干した後に脱穀し、地元で消費する<ref name="産経20141021"/>。

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