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736 バイト追加 、 2022年3月31日 (木) 07:44
== 私見 ==
伝説の元となった「鬼退治(あるいは盗賊退治)」の物語は古くからあったものかもしれないが、魏石鬼八面大王の「伝説群」そのものは江戸時代以降に成立したもののようである。『仁科濫觴記』における仁科氏は、伝説の元となった「鬼退治(あるいは盗賊退治)」の物語は古くからあったものかもしれないが、魏石鬼八面大王の「伝説群」そのものは江戸時代以降に成立したもののようである。『仁科濫觴記』における仁科氏<ref>平安末期の仁科氏は木曽義仲に仕え、義仲敗死後も遺児を隠し育てる等、長野県の歴史の中では重要な役割を果たした有力氏族であった。</ref>は、
* 平安時代:皇姓仁科氏 → 承久の乱で上皇方につき、乱後の処分で直系は断絶、関氏(桓武平氏)から養子を迎える。
* 鎌倉~戦国:関姓仁科氏 → 当主仁科盛政は、臣従した武田氏に翻意あり、として処刑され、直系は断絶。武田氏(仁科五郎盛信)が跡目を相続する。当主仁科盛政は、臣従した武田氏に翻意あり、として処刑され、直系は断絶。武田氏(仁科五郎盛信<ref>長野県の子供は、小・中学校(特に公立学校)で県歌「信濃の国」を覚え込まされるわけですが、「仁科五郎盛信」は歌詞の中に登場する有名人物である。だから、生粋の長野県人は全てその名前を知っている、と言っても過言ではない、と思うのですが、歴史を学んで「武田の子なら長野県人じゃないんじゃん?」と津私のように突っ込んでしまう人はどれくらいいるのだろうか、と思う。</ref>)が跡目を相続する。
** 盛政の子供達は、飯縄神社の神主「千日次郎太夫」の養嗣となり、神官として明治維新まで存続した。
** 仁科氏の支族は、平姓仁科宗家・武田両氏滅亡後、上杉氏に臣従し米沢藩士として仕えた者、小笠原氏に出仕した者に分裂したが、多くは兵農分離で帰農した。

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