=== 生い立ち ===
クー・フーリンは女戦士[[スカータハ]]に師事するためアイルランドを離れ彼女の下に出向いていた。説話『{{仮リンク|エウェルへの求婚|en|/Tochmarc Emire}}』はこれを後に触れる[[エメル|エウェル]]との結婚のために彼女の父親からクー・フーリンに出された条件であったとする。この修業の地でアイフェとクー・フーリンは出会った。クー・フーリンは女戦士スカータハに師事するためアイルランドを離れ彼女の下に出向いていた。
クー・フーリンとアイフェが出会い、子を儲ける事になるこの修業の地について、相異なる記述が残されている。『レカンの黄書』所収の版は修業の地をレーサ<ref group="†">Letha. 「本土」。[[アルモリカ]] (現代のフランス[[ブルターニュ]]) や[[ラティウム]] (現代のイタリア[[ラツィオ州]]) を指して使われた言葉 ([http://www.dil.ie/30037 eDIL - letha]) 。ただし、コンホヴァル王はこの後の場面で、コンラが「島から[アルスターへ]来た」と発言している。</ref>であるとしている。一方、TCD MS 1336<ref group="†">[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|ダブリン大学トリニティ・カレッジ]]図書館写本 1336。16世紀に筆写されたと見られる{{harv|Abbott|1921|page=355}}。基本的には説話ではなくブレホン法に関する法文章を集めた写本である。MS H 3.17と書架番号で呼ばれることも。</ref>所収の『アイフェの一人息子の最期』の版や、『エウェルへの求婚』は[[アルバ王国|アルバ]] (現代のスコットランド) であるとしている。そのスコットランドに伝わる写本 『{{仮リンク|ディーン・オブ・リズモアの書|en|Book of the Dean of Lismore}}』<ref group="†">16世紀前半に編纂。似た名の''Book of Lismore''とは別の写本。</ref> 所収の版では[[スカイ島]]の {{仮リンク|ダンスキー城|en|Dunscaith Castle}}であったとされる{{sfn|Maclauchlan|1862|pages=50-53}}。またコンラの母親アイフェについても、クー・フーリンの武術の師であるスカータハの肉親であったとも、あるいはスカータハと敵対する別部族の女戦士であったとも伝えられる<ref group="†">彼女その人の詳細については該当項目に譲る (→[[アイフェ]]) 。</ref>。説話『エウェルへの求婚(Tochmarc Emire)』はこれを後に触れるエウェルとの結婚のために彼女の父親からクー・フーリンに出された条件であったとする。この修業の地でアイフェとクー・フーリンは出会った。
細部はともかくとして、修業を終えたクー・フーリンは身重のアイフェを残してアイルランドへと帰還する事になった。クー・フーリンは金の指輪<ref group="†">『レカンの黄書』所収の版にならいここでは指輪としたが、これについても諸説があり、TCD MS 1336の版では金の腕輪とされる。またキーティングによれば金の鎖であるとするものもあったようだ{{harv|Keating|1908|pages=218-219}}。</ref>をアイフェに託し、生まれる男子の指に指輪がぴったりとはまる頃、彼を父親であるクー・フーリンを探しにアイルランドへ旅立たせるよう言い残した。またこの時生まれてくる息子に対し、「進む道を変えてはならない」「誰にも名乗ってはならない」「いかなる挑戦にも応えねばならない」とも言い渡した。この3つの命令はクー・フーリンと[[ゲッシュオイフェ|アイフェ]]とよばれる物であり、ゲッシュを課せられた者がこれを破ってしまう事で自身の破滅を招き、またその逆にゲッシュを厳格に守ろうとしたために甚だしい不利益を被る、という展開がアイルランドの神話・説話では繰り返される。この場合においても、この3つのゲッシュが後のコンラとクー・フーリンの父子対決を不可避の物とする。が出会い、子を儲ける事になるこの修業の地について、相異なる記述が残されている。
生まれた男児は幼い頃からスカータハに師事し、並々ならぬ戦闘技術を身に付けることとなった。『レカンの黄書』所収の版は修業の地をレーサ<ref group="†">Letha. 「本土」。アルモリカ (現代のフランスブルターニュ) やラティウム (現代のイタリアラツィオ州) を指して使われた言葉 ([http://www.dil.ie/30037 eDIL - letha]) 。ただし、コンホヴァル王はこの後の場面で、コンラが「島から[アルスターへ]来た」と発言している。</ref>であるとしている。ゲイ・ボルグについてはクー・フーリンがアイルランドに持ち帰っていたため教わる事が出来なかったが、これ以外の戦闘技術については全てスカータハに仕込まれた。一方、TCD MS 1336<ref group="†">ダブリン大学トリニティ・カレッジ図書館写本 1336。16世紀に筆写されたと見られる(Abbott, 1921, p355)。基本的には説話ではなくブレホン法に関する法文章を集めた写本である。MS H 3.17と書架番号で呼ばれることも。</ref>所収の『[[オイフェ|アイフェ]]の一人息子の最期』の版や、『エウェルへの求婚』はアルバ (現代のスコットランド) であるとしている。そのスコットランドに伝わる写本 『ディーン・オブ・リズモアの書(Book of the Dean of Lismore)』<ref group="†">16世紀前半に編纂。似た名の''Book of Lismore''とは別の写本。</ref> 所収の版ではスカイ島のダンスキー城(Dunscaith Castle)であったとされる(|Maclauchlan, 1862, p50-53)。またコンラの母親[[オイフェ|アイフェ]]についても、クー・フーリンの武術の師であるスカータハの肉親であったとも、あるいはスカータハと敵対する別部族の女戦士であったとも伝えられる<ref group="†">彼女その人の詳細については該当項目に譲る (→[[オイフェ|アイフェ]]) 。</ref>。 細部はともかくとして、修業を終えたクー・フーリンは身重の[[オイフェ|アイフェ]]を残してアイルランドへと帰還する事になった。クー・フーリンは金の指輪<ref group="†">『レカンの黄書』所収の版にならいここでは指輪としたが、これについても諸説があり、TCD MS 1336の版では金の腕輪とされる。またキーティングによれば金の鎖であるとするものもあったようだ{{harv|Keating|1908|pages=218-219}}。</ref>を[[オイフェ|アイフェ]]に託し、生まれる男子の指に指輪がぴったりとはまる頃、彼を父親であるクー・フーリンを探しにアイルランドへ旅立たせるよう言い残した。 またこの時生まれてくる息子に対し、「進む道を変えてはならない」「誰にも名乗ってはならない」「いかなる挑戦にも応えねばならない」とも言い渡した。この3つの命令は[[ゲッシュ]]とよばれる物であり、ゲッシュを課せられた者がこれを破ってしまう事で自身の破滅を招き、またその逆にゲッシュを厳格に守ろうとしたために甚だしい不利益を被る、という展開がアイルランドの神話・説話では繰り返される。この場合においても、この3つのゲッシュが後のコンラとクー・フーリンの父子対決を不可避の物とする。 生まれた男児は幼い頃からスカータハに師事し、並々ならぬ戦闘技術を身に付けることとなった。ゲイ・ボルグについてはクー・フーリンがアイルランドに持ち帰っていたため教わる事が出来なかったが、これ以外の戦闘技術については全てスカータハに仕込まれた。
=== 父子対決 ===
男児が七歳になるころ、残された金の指輪が彼の指にちょうど合うようになってきたため、彼は言いつけ通り小舟に乗りアイルランドへと漕ぎ出した<ref group="†">この一連の出来事は、『クーリーの牛捕り』によればクーフーリンがフェルディアと戦う以前の事であったとされる。</ref>。彼を乗せた小舟がアイルランドへと近づいた頃、アルスターの人々はちょうど足跡の浜<ref group="†">Tracht Eisi. この名はクー・フーリンと男児の組み打ちの場面において、男児の足が石柱に足首までめり込みその足跡が残ったことが由来であると後から説明される。</ref>と呼ばれる海岸に集まっていた。彼らの目の前で男児は[[投石器|スタッフスリング]]を使って鳥を撃ち落とした。撃ち落とされた鳥は不思議なことに生きており、男児は鳥を空に放った。彼は再び鳥を撃ち落とし、そして鳥を蘇らせた。年端の行かぬ異郷の子がそのような芸当をやってみせた事が[[コンホヴァル・マク・ネサ|コンホヴァル]]王<ref group="†">『レカンの黄書』の版ではこの時の王の所在について明示されていないが、キーティングの『アイルランド史』に従うなら王は他の貴族たちと共に足跡の浜に集まっていた{{harv|Keating|1908|pages=218-219}}、つまり現場に居合わせていたという事になる。</ref>を驚かせた。
子供にさえにそのような技術を仕込んだ土地から十分訓練を積んだ丈夫がやってくるような事があってはアルスターは一たまりもない。