神武天皇は神武天皇76年に崩御し、翌年9月12日に畝傍山東北陵に葬られた。皇太子神渟名川耳尊は特に心を喪葬の事に留めていた。その庶兄である手研耳命は長くにわたる政務経験があったが仁義にそむいており、神武天皇の諒闇中に二弟を害することをはかった。これは神武天皇崩御より3年後のことである。
『古事記』では、手研耳命は未亡人となった比売多多良伊須気余理比売を自らの妻とし、神武天皇と比売多多良伊須気余理比売のあいだに生まれた嫡子である皇子たちを暗殺しようとする<ref name="読み解き事典-多芸志美美">『日本の神様読み解き事典』p152-153「多芸志美美命/手研耳命」</ref><ref name="学研2015">『古事記と日本の神々がわかる本』p90-91「イスケヨリヒメの物語」</ref><ref name="歴代天皇紀-綏靖">『図説 歴代天皇紀』p42-43「綏靖天皇」</ref>。これを察した比売多多良伊須気余理比売は、子供たちに身の危険を知らせるために和歌を2首詠んで送ったという<ref name="学研2015"/><ref name="ヒメたち98">『神話の中のヒメたち もうひとつの古事記』p98-101「歌で御子救った初代皇后」」</ref><ref>『古事記』「天皇崩後、其庶兄當藝志美美命、娶其嫡后伊須気持余理比売之時、將殺其三弟而謀之間、其御祖伊須気持余理比売之患苦而、以歌令知其御子等」</ref>。
=== 手研耳命の暗殺 ===