第二の一書では天津神となっている<ref>経済雑誌社, 1917, コマ38, p58-59</ref>。経津主神と武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている<ref>宇治谷孟, 日本書紀, 上, 講談社, 1988, isbn10:0802150586, isbn:9780802150585, p56-8, 64-6</ref><ref>坂本・家永・井上・大野, 1994, p136</ref><ref>東実, 2000, p60-61, 常陸は天といわれていた</ref>。
鹿島神宮や静神社の社伝によれば、武甕槌命は香島(723年に鹿島と改名)の見目浦(みるめのうら)に降り(現在の[[鹿島神宮]]の位置){{Sfn|鹿島神宮や静神社の社伝によれば、武甕槌命は香島(723年に鹿島と改名)の見目浦(みるめのうら)に降り(現在の鹿島神宮の位置)<ref>東実|, 2000|pp=63-64|loc=§鹿島に降った武甕槌神}}{{Sfn|東実|2000|pp=65, p63-66|loc=§神軍の陣形}}、磐座に坐した(鹿島神郡の[[要石]]とも){{Sfn|</ref>、磐座に坐した(鹿島神郡の要石とも)<ref>東実|, 2000|pp=68, p68-69|loc=§はじめて祀られた場所}}。天香香背男は常陸の大甕(現在の[[日立市]]大甕、鹿島神宮より北方70</ref>。天香香背男は常陸の'''大甕'''(現在の日立市大甕、鹿島神宮より北方70 km)を根拠地にしており、派遣された建葉槌命は静の地(大甕から西方約20 km)に陣を構えて対峙した{{Sfn|<ref>東実|, 2000|pp=60, p60-61|loc=§常陸は天といわれていた}}。建葉槌命の陣は、茨城県[[那珂市|那珂郡]]瓜連(うりづら)町の[[静神社]]{{Sfn|</ref>。建葉槌命の陣は、茨城県那珂郡'''瓜連'''(うりづら)町の静神社<ref>平凡社|, 1939|ps=(, コマ92)|p=152|loc=§シズジンシャ}}, p152</ref>と伝えられる{{Sfn|<ref>東実|, 2000|pp=60, p60-61|loc=§常陸は天といわれていた}}{{Sfn|</ref><ref>東実|, 2000|pp=65, p65-66|loc=§神軍の陣形}}666</ref>。
「カガ(香々)」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる{{Sfn|坂本・家永・井上・大野|1994|p=121|ps=(註六)}}。神威の大きな星を示すという{{Sfn|坂本・家永・井上・大野|1994|p=137|ps=(註五)}}。[[平田篤胤]]は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は[[金星]]のことであるとしている。