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:老人となった太郎は、白幡の峰<!--子安の浜 (確認できない)-->に行き、両親の墓を探したが、なかなか見つけられない。それを見かねた乙姫は、松枝<ref>乙姫が枝に光を照らしたとされる龍燈の松は、<!--大正時代に枯死 no ref-->鉄道開通時に伐られたとされる</ref><ref name="kenkyukai1928"/>。に明かりを照らして場所を示した。やっとのことで墓を見つけた太郎はその地に庵を結び、観音像を安置した。太郎の死後、その庵は観福寺(浦島院観福寿寺)となった<ref>萩坂昇, よこはまの民話, むさしの児童文化の会, 1976, 神奈川の民話, p97-103</ref><ref>小島瓔礼, 武相昔話集: 神奈川, 岩崎美術社, 1981, p71</ref>。
観福寺は、江戸末期の[[神奈川宿]]火災で焼失して[[廃寺]]となるが{{Refn|group="注"|資料により慶応4年(1868年)の火事とも観福寺は、江戸末期の神奈川宿火災で焼失して廃寺となるが<ref>資料により慶応4年(1868年)の火事とも、「明治元年正月廿七日」の火事だともされる<ref name="inoue_osamukenkyukai1928"/>、「明治元年正月廿七日」の火事だともされる。事実の矛盾ではなく、この年は「慶応4年」正月に起こった事項であっても遡って「明治元年」の元号を適用することが行われた</ref><ref name="kenkyukai1928inoue_osamu"/>。事実の矛盾ではなく、この年は「慶応4年」正月に起こった事項であっても遡って「明治元年」の元号を適用することが行われた。}}、[[明治5年]](1872年)に[[石井直方 (本陣宿屋)|石井直方]](神奈川本陣)が、[[神奈川区]]の[[慶運寺]]に一宇を増築させて併合させた。、明治5年(1872年)に石井直方(神奈川本陣)が、神奈川区の慶運寺に一宇を増築させて併合させた<ref name="inoue_osamu"/><ref name="hayashi-kampukuji"/>。[[観音菩薩|聖観世音菩薩]]像は残り、こちらに安置されている。聖観世音菩薩像は残り、こちらに安置されている<ref name="kenkyukai1928"/>。この聖観世音菩薩像と、慶運寺および同区内の蓮法寺が所有する塔・碑は、「[[浦島太郎伝説関係資料]]」として[[横浜市]]登録の[[有形民俗文化財|地域有形民俗文化財]]となっている。。この聖観世音菩薩像と、慶運寺および同区内の蓮法寺が所有する塔・碑は、「浦島太郎伝説関係資料」として横浜市登録の地域有形民俗文化財となっている。
=== 長野県木曽の浦島伝説 ===
[[File:Kuniyoshi Station 38.jpg|left|thumb|100px|[[歌川国芳]]画、「[[福島宿 (中山道)|福島宿]]」<!--、『[[中山道六十九次|木曾街道六十九次]]』。-->]]
{{More|寝覚の床}}
 
[[長野県]][[木曽地域|木曽]]の山中に、浦島太郎がここに住んでいたという伝説が、室町後期から江戸時代の頃に成立している。
=== 香川県三豊市詫間町の浦島伝説 ===
==== 由来の地名など ====
[[File:Maruyamajima takumacho.jpg|thumb|香川県三豊市詫間町の丸山島。干潮時には地続きになる。浦島神社、竜王宮という祠がある]]
[[File:Urasimatarounohaka.jpg|thumb|香川県三豊市詫間町にある浦島太郎親子の墓 中央が太郎の墓]]
[[香川県]][[三豊市]][[詫間町]]の西部、[[荘内半島]]はかつて「浦島」と呼ばれており、数々の浦島太郎にまつわる伝説が残されている<ref>{{Cite book|和書|author= |title=香川県三豊郡詫間町町勢要覧 ウェーブタクマ |publisher=香川県三豊郡詫間町役場総務課 |date=1990年6月1日 |page=12 }}</ref>。[[足利義満]]が浦島の三崎神社に参拝した際に
:"''へだてゆく 八重の汐路の浦島や 箱の三崎の 名こそしるけれ''"

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