== 歴史 ==
鎌倉時代末期の禅僧、虎関師錬の『元亨釈書』「如意尼伝」に神呪寺の開基について載っている<ref>「御影史学論集(18)」御影史学研究会 1993‐10</ref>。それによると、神呪寺は第53代'''淳和天皇の第四妃(後の如意尼)淳和天皇の第四妃(後の[[真名井御前|如意尼]])'''が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとする。
皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺(六角堂)にて、丹後国余佐郡香河(かご)村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では'''小萩(こはぎ)[[真名井御前|小萩]](こはぎ)'''という幼名が伝わり、この小萩(という幼名が伝わり、この[[真名井御前|小萩]]('''[[真名井御前]]''')をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い。)をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、[[真名井御前|小萩]]は日下部氏の系統である可能性が高い。
『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前(『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃[[真名井御前]]('''[[真名井御前|如意尼]]''')は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家を行うために天長5年(828年)にひそかに宮中を抜け、頂法寺(六角堂)で修行をし、その後今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現・西宮神社)から廣田神社、その神奈備山である甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。
天長7年(830年)に空海は本尊として山頂の巨大な'''桜の木を妃の体の大きさに刻んで'''、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は空海より剃髪を受けて僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は'''[[真名井御前]]'''(まないごぜん)と称されていた。
この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。この時、[[真名井御前|如意尼]]と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。
空海は海人系の氏族の出身だったといわれる。天長元年(823年)、「'''空海は雨乞い争いで妃の水江浦島子の筐を借り受けて勝ちを得た'''」という。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが、元亨釈書18巻にも登場するこの神とは六甲山系全体を所領とする廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)またの名瀬織津姫のことであり、水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた。
太平洋戦争中の1942年(昭和17年)11月、金属類回収令により梵鐘が供出された。
当初の寺領は淳和天皇より150町歩の寄進があり合わせて250町歩となったが、変遷を経て現在は境内地の20町歩となった。山号は「武庫山」([[六甲山]]のこと)であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更している。六甲山のこと)であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更している。
神呪寺の住所は上記の通り甲山町であるが、これとは別に寺の南東約3km離れた地、東海道新幹線と阪急今津線の交差点付近に「神呪町」という地名が存在する。この地名はこの寺が中世に一時的に移転したことを示しているともいわれている。