==== 安房国出身の比企氏 ====
和名抄に安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していた。延喜式の安房坐神社(館山市大神宮)は忌部の祖天太玉命を祭神とす。安房忌部と同族の日置氏一族は武蔵国比企郡にも土着し、地名を比企と称した。両国は古代から密接な関係があった。相模国の三浦和田一族は安房国に所領を持っており、吾妻鑑・和田合戦の条に「和田義盛の子朝夷名三郎義秀、海浜に出で、船に棹して安房国に赴く、其勢五百騎、船六艘」と見ゆ。安房国朝比奈村(千倉町)は此氏の出身地なり。愚管抄(著者慈円は九条兼実の弟)に「ヒキノ判官能員阿波国ノ者也、ト云者ノムスメヲ思テ、男子ヲウマセタリケルニ、六ニ成ケル、一万御前ト云ケル。(中略)。其外笠原ノ十郎左衛門親景、渋河ノ刑部兼忠ナド云者ミナウタレヌ、ヒキガ子共、ムコノ児玉党ナド、アリアイタル者ハ皆ウタレニケリ、コレハ建仁三年九月二日ノ事ナリ。(中略)。ヒキハ其郡ニ父ノタウトテ、ミセヤノ大夫行時ト云者ノムスメヲ妻ニシテ、一万御前が母ヲバマウケタルナリ、其行時ハ又児玉タウヲムコニシタル也」と見ゆ。安房国の能員の妻は秩父党の児玉氏流片山行時の娘なり。吾妻鑑巻十七に「建仁三年九月、能員の二歳の男子等は好あるに依りて、和田義盛に預けて、安房国に配す」と。能員は安房出身の出稼衆で三浦党和田氏一族である。平家物語巻八に「征夷将軍院宣の御使は中原泰定にて、三浦介義澄して請取り奉るべし。三浦介義澄も家子二人郎等十人具したりけり。二人の家子は和田三郎宗実、比企藤四郎能員なり。郎等十人をば、大名十人して、一人づつ俄に仕立てられけるとぞ聞えし」。また、吾妻鑑巻十二に「建久三年七月二十六日、勅使中原康定等、征夷大将軍の除書を持参す。三浦義澄は比企右衛門尉能員・和田三郎宗実ならびに郎従十人を相具し、かの状を請け取る」と見ゆ。能員は三浦氏の家子であるが、比企系図等には一切記載が無い。後世の系図作成者は安房国出身とか三浦党を無視している。似たような系図には、丹党の創設者である上野国小野郷中村出身の出稼衆小野氏を無視しており、児玉党は創設者の下野国都賀郡出身の富野氏を無視している。年貢徴収者で村人の嫌われ者である武士は出稼衆で地元出身者はいない。比企氏は比企郡より、丹党は丹之庄より、児玉党は児玉郡より発祥して、其の地の出身者と考えられたが、この説は大きな誤りである。
== 日御碕神社 =
=当社は、上下の2社あり、上の宮を'''神の宮'''、下の宮を、'''日沈宮'''(ひしずみのみや、日沉の宮)と称し、2社を総称し'''日御碕神社'''('''日御碕大神宮''')と呼ばれる。古くは『出雲国風土記』に美佐伎社、『[延喜式』に御碕社とあり<ref>白井, 1997, p290</ref>、地元では「みさきさん」とよばれる<ref name=":1">https://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1260146321415/files/p16-17.pdf, 広報いずも 第114号, 2022-07-27, 出雲市</ref>。
日沈宮は元は文島(現・経島('''日置島'''))に鎮座し、天葺根命が文島にいたとき、[[天照大神]]が降臨し、「我天下の蒼生(国民)を恵まむ、汝速かに我を祀れ」との神勅によって奉斎したのが始まりと伝わる<ref>白井, 1997, p290</ref>。天暦2年(948年)に村上天皇の勅命により現在地に遷座したと伝わる<ref name=":1" /><ref name=":0" />。
「日沈の宮」の名前の由来は、創建の由緒が、[[伊勢神宮]]が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」 との「勅命」を受けた神社であることによる<ref>現地設置、日御碕神社御由緒板による。</ref>。
== 丹後国風土記逸文 ==