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==== 先史時代 ====
* 縄文時代(※時代区分については諸説あり。最も早い説で前期、遅い説で末期) - 稲作(陸稲栽培)の日本伝来。日本列島においてまだ少数派であった稲作の担い手は、稲を害する虫に悩まされたであろう<ref name="JCPA-ウンカ">http://www.jcpa.or.jp/labo/column/control/08/, ウンカをめぐって, 公式ウェブサイト, 農薬工業会, 20200927194014, 2018-05-31, 農薬工業会</ref>が、当時の大多数の日本人にとって“稲虫”の害はまだ他人事であったと思われる。
* 弥生時代早期(旧来の縄文時代末期) - 日本列島における稲作の本格的普及。このとき以来、稲作の担い手と収穫を当てにする共同体にとって、稲を害する虫の存在は常に付きまとう大きな脅威となった<ref name="JCPA-ウンカ" /><ref group="私注">ただ、弥生の共同体は稲作に関する祭祀をも持って渡来したと考えられ、祖先の霊、特に'''「害虫」などの災厄に対応する祖霊'''を慰撫する祭祀は、弥生時代から行われていた、と管理人は考える。を慰撫する祭祀は、弥生時代から行われていた、と管理人は考える。また、稲や野菜につく虫はウンカのみではない。虫害をウンカのみに限定するのはいかがなものか。</ref>。
==== 古代 ====
* [[大宝 (日本)斉明天皇|大宝皇極天皇]]元年[[8月 (旧暦)|8月]]([[701年]]9月頃3年(644年)7月に富士川のあたりで、大生部多は長さ4寸ほどの'''虫'''を指して、「これは常世の神である。この神を祭る人は、富と長寿が得られる」といい、'''虫祭り'''をすることを勧めた。巫女たちも神のお告げといつわり、「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」といった。このために信仰は広まり、都でも田舎でも'''常世の虫をとって安置し'''、財宝を差し出したが、何の利益もなく、損失が多かった。秦河勝は民衆が騙されるのをにくみ、大生部多を捕え打ち懲らしめたところ、巫女も恐れて祭りを勧めることをやめた<ref>この場合も虫を一種の「祖霊」とみなしていたのであれば、虫送りの原型の祭祀として興味深いと感じる。</ref>。* 大宝元年8月(701年9月頃<ref group="*">[[和暦]]の大宝元年8月1日と8月29日(同月最終日)は、[[西暦]]([[ユリウス暦]])では701年9月7日と10月5日。和暦の大宝元年8月1日と8月29日(同月最終日)は、西暦(ユリウス暦)では701年9月7日と10月5日。</ref>、[[飛鳥時代]]末期) 、飛鳥時代末期) - [[三河国]](現在の[[愛知県]]東部地域)を始めとする17か国に[[蝗害]]あり/『[[続日本紀]]』巻2 三河国(現在の愛知県東部地域)を始めとする17か国に蝗害あり/『続日本紀』巻2 大宝元年8月辛酉条に基づく。以後、数年おきに蝗害の記録あり。* [[天平]]21年天平21年/[[天平感宝]]元年天平感宝元年/[[天平勝宝]]元年([[749年]]、[[奈良時代]]中期) 天平勝宝元年(749年、奈良時代中期) - [[下総国]](現在の[[千葉県]]北部・[[茨城県]]西部地域等)に蝗害あり/『[[続日本紀]]』に基づく。下総国(現在の千葉県北部・茨城県西部地域等)に蝗害あり/『続日本紀』に基づく。* [[弘仁]]3年([[812年]]、[[平安時代]]初期) 弘仁3年(812年、平安時代初期) - [[薩摩国]](現在の[[鹿児島県]]西部地域)に蝗害あり/[[ウンカ]]による。『[[日本後紀]]』巻22 薩摩国(現在の鹿児島県西部地域)に蝗害あり/ウンカによる。『日本後紀』巻22 弘仁3年条に基づく。* [[寿永]]2年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]({{small|西暦換算}}:[[1183年]][[6月22日]]、平安時代末期) 寿永2年6月1日(1183年6月22日、平安時代末期) - [[篠原の戦い]]で[[平氏]][[武将]]・篠原の戦いで平氏武将・'''[[斎藤実盛]]'''(斎藤別当実盛)'''が戦死'''/その最期を伝える逸話が、後世、主として[[西日本]]で稲虫を追い払う[[呪術]]的[[神事]]と強く結びつくこととなる。/その最期を伝える逸話が、後世、主として西日本で稲虫を追い払う呪術的神事と強く結びつくこととなる。
==== 中世 ====

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