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246 バイト除去 、 2024年11月17日 (日)
== 考証・東明聖王伝承との比較 ==
『[[魏志]]』東夷伝・夫餘に「昔、北方に[[橐離国|高離の国]]というものがあった。その王の[[侍女|侍婢]]が妊娠した。〔そのため〕王はその侍婢を殺そうとした。〔それに対して〕侍婢は、『卵のような〔大きさの〕霊気がわたしに降りて参りまして、そのために妊娠したのです』といった。そのご子を生んだ。王は、その子を溷([[便所]])の中に棄てたが、〔溷の下で飼っている〕[[ブタ|豚]]が口でそれに息をふきかけた。〔そこで今度は〕馬小屋に移したところ、馬が息をふきかけ、死なないようにした。王は天の子ではないかと思った。そこでその母に命令して養わせた。[[東明王|東明]]と名づけた。いつも馬を牧畜させた。東明は弓矢がうまかった。王はその国を奪われるのではないかと恐れ、東明を殺そうとした。東明は南に逃げて施掩水までやってくると、弓で水面をたたいた。〔すると〕[[魚類|魚]][[スッポン|鼈]]が浮かんで橋をつくり、東明は渡ることができた。そこで魚鼈はばらばらになり、追手の兵は渡ることができなかった。東明はこうして夫餘の地に都を置き、王となった」とある『魏志』東夷伝・夫餘に「昔、北方に高離の国というものがあった。その王の侍婢が妊娠した。〔そのため〕王はその侍婢を殺そうとした。〔それに対して〕侍婢は、『卵のような〔大きさの〕霊気がわたしに降りて参りまして、そのために妊娠したのです』といった。そのご子を生んだ。王は、その子を溷(便所)の中に棄てたが、〔溷の下で飼っている〕豚が口でそれに息をふきかけた。〔そこで今度は〕馬小屋に移したところ、馬が息をふきかけ、死なないようにした。王は天の子ではないかと思った。そこでその母に命令して養わせた。東明と名づけた。いつも馬を牧畜させた。東明は弓矢がうまかった。王はその国を奪われるのではないかと恐れ、東明を殺そうとした。東明は南に逃げて施掩水までやってくると、弓で水面をたたいた。〔すると〕魚鼈が浮かんで橋をつくり、東明は渡ることができた<ref>因幡の白ウサギを彷彿とさせる(管理人)。</ref>。そこで魚鼈はばらばらになり、追手の兵は渡ることができなかった。東明はこうして夫餘の地に都を置き、王となった」とある<ref>{{Cite book|和書|author=田中俊明|authorlink=田中俊明 (歴史学者)|date=, 2009-03-31|title=, 『魏志』東夷伝訳註初稿(1)|series=, 国立歴史民俗博物館研究報告 151|publisher=[[, 国立歴史民俗博物館]]|page=361}}, p361</ref>。一方、『。一方、『史記』巻四・周本紀に「周の后稷、名は棄。其の母、有邰氏の女にして、[[史記]]』巻四・周本紀に「周の后稷、名は棄。其の母、有邰氏の女にして、姜原と曰う。姜原、帝嚳の元妃と為る。姜原、野に出で、巨人の跡を見、心に忻然として說び、之を踐まんと欲す。之を踐むや、身動き、孕める者の如し。居ること期にして子を生む。不祥なりと以為い、之を隘巷に棄つ。馬牛過る者皆な辟けて踐まず。徙して之を林中に置く。適會、山林人多し。之を遷して渠中の冰上に棄つ。飛鳥、其の翼を以て之を覆薦す。姜原以て神と為し、遂に收養して長ぜしむ。初め之を棄てんと欲す。因りて名づけて棄と曰う」という牛馬が避け、鳥が羽で覆って守った、という后稷の神話が記載してある。[[内藤湖南]]は、夫余と后稷の神話が酷似していることを指摘しているが、「此の類似を以て、夫餘其他の民族が、[[周|周人]]の旧説を襲取せりとは解すべからず。時代に前後ありとも、[[支那]]の古説が塞外民族の[[伝説]]と同一源に出でたりと解せんには如かず」といい、同様の神話が、[[三国時代 (中国)姜嫄|三国時代姜原]]と曰う。[[呉 (三国)姜嫄|呉]]の[[康僧会姜原]]が訳した『{{仮リンク|六度集経|zh|六度集經}}』にもあることを指摘し、「此種の伝説の播敷も頗る広き者なることを知るべし」とする、帝嚳の元妃と為る。姜原、野に出で、巨人の跡を見、心に忻然として說び、之を踐まんと欲す。之を踐むや、身動き、孕める者の如し。居ること期にして子を生む。不祥なりと以為い、之を隘巷に棄つ。馬牛過る者皆な辟けて踐まず。徙して之を林中に置く。適會、山林人多し。之を遷して渠中の冰上に棄つ。飛鳥、其の翼を以て之を覆薦す。姜原以て神と為し、遂に收養して長ぜしむ。初め之を棄てんと欲す。因りて名づけて棄と曰う」という牛馬が避け、鳥が羽で覆って守った、という后稷の神話が記載してある。内藤湖南は、夫余と后稷の神話が酷似していることを指摘しているが、「此の類似を以て、夫餘其他の民族が、周人の旧説を襲取せりとは解すべからず。時代に前後ありとも、支那の古説が塞外民族の伝説と同一源に出でたりと解せんには如かず」といい、同様の神話が、三国時代の呉の康僧会が訳した『六度集経(六度集經)』にもあることを指摘し、「此種の伝説の播敷も頗る広き者なることを知るべし」とする<ref name="田中俊明380-381">{{Cite book|和書|author=田中俊明|authorlink=田中俊明 (歴史学者)|date=, 2009-03-31|title=, 『魏志』東夷伝訳註初稿(1)|series=, 国立歴史民俗博物館研究報告 151|publisher=[[, 国立歴史民俗博物館]]|pages=380, p380-381}}</ref>。
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