<blockquote>黄帝は神農氏に仕え、入朝しない諸侯を討伐した。ただし、蚩尤は凶暴でなかなか討伐できなかった。炎帝とその子孫がが反乱を起こしたため、黄帝は阪泉の野で戦い、これを討った。この時に蚩尤もまた反乱を起こしたので、涿鹿の野で戦い、ついに蚩尤を捕らえて殺した。黄帝は諸侯に尊ばれ、神農氏に変わって帝位についた<ref>史記I、筑摩世界文学大系6、小竹文夫ら訳、筑摩書房、1971</ref>。</blockquote>
とのことである。とのことである。「史記」は前漢の武帝(紀元前2~1世紀)の時代に司馬遷によって編纂された歴史書である。ただし、後漢(1~3世紀)には、高誘、宋衷が「'''炎帝は神農氏のこと'''」と述べており、これが通説とされている。史記の記述は
、『山海経』に登場する怪神帝鴻(帝江)と同一のものとする説もある。[[蚩尤]]を討って諸侯の人望を集め、[[炎帝神農|神農氏]]に代わって帝となった。『史記』はその治世を、従わない者を次々に討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。少昊・昌意・姫揮らの父。「'''炎帝が帝であった時に、徳が薄れ戦いが起き、黄帝は炎帝一族と戦って勝ち、帝位に就いた。'''」
彼以降の4人の五帝と、夏・殷・周・秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。おそらくは、中国に都市国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろうと考えられている。さらに後世になると、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。また、清代末期に革命派が、黄帝が即位した年を紀元とするとの解釈が多いと感じる蚩尤も炎帝の子孫とされている。 『史記』はその治世を、従わない者を次々に討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。少昊・昌意・姫揮らの父。 == 有史以後の黄帝像の変遷 ==黄帝以降の4人の五帝と、夏・殷・周・秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。おそらくは、中国に都市国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろうと考えられている。さらに後世になると、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。また、清代末期に革命派が、黄帝が即位した年を紀元とする'''黄帝紀元'''と称する暦を用いて清朝への対抗意識を示したことはよく知られている。
だが、辛亥革命後に至り革命支持者を中心に黄帝の存在を否定する主張が高まった。これに並行して日本でも同様の議論が起こり、白鳥庫吉・市村瓚次郎・飯島忠夫らが黄帝の実在性を否定する論文を著している。
現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』も黄帝の著作とされている。
== 神仙としての黄帝像 ==
本来は'''雷神'''であり<ref>袁珂『中国神話・伝説大事典』大修館書店1999年、210頁。</ref>、「軒轅」が龍蛇形の星座を指す場合があり、『山海経』に登場する(黄帝の子孫が住む<ref>『中国神話・伝説大事典』178頁。</ref>)軒轅国の住民が'''人面蛇身'''であり、伝説において龍との関係が深いことから黄帝は龍蛇形の神だったと考えられている<ref>御手洗勝『古代中國の神々』創文社1984年、278-282頁。</ref>。