== 馬と豚と蛇 ==
東周時代に書かれたとされる『山海経』の大荒西経によると、西王母は「西王母の山」または「玉山」と呼ばれる山を擁する崑崙の丘に住んでおり、西山経には:「人のすがたで豹の尾、虎の玉姿(下半身が虎体)、よく唸る。蓬髻長髪に玉勝(宝玉の頭飾)を戴く。彼女は天の厲と五残(疫病と五種類の刑罰)を司る。」という半[半神の姿で描写されている<ref>徐, 1998, pp=164-222</ref>。また、海内北経には:「西王母は几(机)によりかかり、勝を戴き、杖をつく」とあり、基本的には人間に近い存在として描写されている<ref>|徐, 1998, pp=164-178</ref>。桑や織物に関する伝承をいくつか挙げて、比較してみたいと思う。
また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、これらの鳥の名は=== 馬頭娘(蚕馬) ==='''大鶩、小鶩、青鳥蚕馬'''であるという(『大荒西経』)。(さんば)とは、中国の伝説の1つで、馬の皮と融合した少女が蚕に変身してこの世に絹をもたらしたとされる伝説。'''蚕女'''(さんじょ)・'''馬頭娘'''(ばとうじょう)の別名があり、日本の「おしらさま」伝説のモデルになったともされる。
敦煌写本(11世紀)には「王母が養蚕の方をお授け下さり」とあり、西王母が養蚕の方法を教えた、とされている。小説的な作品ではあるが、「漢武別国洞冥記(2世紀)」に「濛鴻の沢(神話的な地名、濛鴻はカオスを意味する)にて、王母が白海の岸辺で桑を摘んでいた」とある。'''桑'''を摘むのは紡織の作業の開始を示す儀礼でもあった。漢代には皇室の女性達が、桑摘みなど儀礼的な養蚕を行う際には、髪に「華勝」という西王母の髪飾りをつけたという。==== 前史 ====中国では古くから絹や蚕にまつわる伝説や説話が存在していた。戦国時代に荀況が記した[荀子』(賦篇)には、蚕の身体は柔軟で頭は馬に似ていると記されている。前漢の書物である『山海経』(海外北経)には、欧糸の野(おうしのの)という土地があり、そこでは少女が跪き木につかまって糸を欧(吐)いていると記されている。更に古くから絹の産地として知られていた蜀(現在の四川省)では、古代の古蜀の王である蚕叢が蚕の飼い方を人々に教えたとする伝説など様々な伝説があったとされている。こうした伝説・説話が結びついた事で誕生したのが「蚕馬(蚕女・馬頭娘)」の伝説であったと考えられている。
「山海経」には==== 『捜神記』 ====:また東へ五十五里ゆくと、宣山と呼ばれる山がある。その山からは、淪水が流れ出す。その川は東南に流れて視水に注ぐ。その中には'''蛟がたくさんいる'''。その川のほとりには桑の木が生えている。その幹の太さは五十尺、枝が重なりあって四方にのび、葉の大きさは一尺あまりもある。赤い木目があり、黄色い花がつき、青い萼がある。これを帝女の桑と呼ぶ。とある。帝女は西王母とされ、織女は天帝の孫と言われている。西王母は女仙を支配する女神でもある。西王母は、女仙の先頭に立って、自ら桑摘み、養蚕、紡織を行う女神でもあったのだろう。桑は西王母とは切っても切れない関係にあったのである。蚕馬のもっとも古い形態であるとされるのは、[[東晋]]の[[干宝]]が記した『[[捜神記]]』(巻14)の「女、蚕と化す」である。
漢代の図像には、世界樹の頂上に座す西王母がみられ、東王父が出現する以前は、西王母が世界樹である桑の木の頂上に座す、と考えられていたようである。母系社会には「父」というものは存在しないので、これが古い時代の西王母の図像であったのではないか、と推察する。昔、ある家の父親が戦争に駆り出され、家には娘と雄馬だけが残された。娘は父親恋しさの余り、雄馬に冗談半分で「もし、御父様を連れて帰ってきてくれたら、あなたのお嫁さんになるわ」と言ったところ、雄馬はすぐさま父親を連れて家に戻ってきた。ところが、娘を目にした時の雄馬の様子がおかしいので父親が娘に事情を問いただすと、娘が一部始終を打ち明けた。これを知った父親は激怒して弩で雄馬を射殺して皮を剥いで晒しものにした。その後、娘が雄馬の皮の側で戯れていると、馬の皮が不意に飛び上がって娘に巻き付いて家から飛び出していった。数日後、娘が発見された時には娘は馬の皮と一つになって大木の枝の間で蚕に変身して糸を吐いていた。そのため、大木は「喪」と同音(ソウ)である「桑」と名付けられたと言う。
また、日本神話との比較から述べると、日本神話では織女達を統括し、支配するのは太陽神である天照大神である。とすると、桑と養蚕を支配する西王母とは、本来、太陽女神であったとはいえないだろうか。河姆渡文化のレリーフでいえば、「鳥が運んでいる太陽」そのものが西王母の原型だったのだと考える。しかし、西王母は時代が下るにつれて、中国では「太陽女神」としての性質が薄れていくので、取り残された鳥の従者達に「太陽神」としての性質が移されたのではないか、と個人的には思う。==== 『太平広記』(『原化伝拾遺』) ====『捜神記』とはやや異なる内容の蚕馬伝説を伝えているのは、[[北宋]]の[[李昉]]が勅命によって編纂した『[[太平広記]]』(巻479)の「蚕女」である。ただし、『太平広記』は古今の書物からの引用の集成であり、「蚕女」も元は『原化伝拾遺』という書物から引用されたものである。
ともかく、「桑」を、西王母を頂上に抱く「世界樹」として考えた時、その根元は水の中や、あるいは混沌の中にあり、それらの中には「蛟がいる」と考えられていたのではないだろうか。メソポタミア神話、イラン神話等でも、「世界樹」の根元には蛇が巣くうことが多い。その起源は、少なくとも古代中国の西王母と桑の木にまで遡ると考える。水の中の蛇、とは当然いわゆる「河伯」でもあっただろう。世界樹の根元に巣くうのは、人身御供の乙女を妻として求める蛇の河伯だったといえる。[[高辛|高辛王]]の時代、蜀の地には君王がおらず、一族がまとまって暮らして他の一族と争っていた。ある娘の父親もその戦いで敵の捕虜となって一年以上経過し、娘は父親の事を考えると居た堪れなくなった。娘の母親は一族の男達に対して、「もし、夫を助けだしくれたら、その者に娘を嫁がせる」と述べた。だが、それに応える者はいなかった。ところが、その話を聞いていた父親の乗馬が手綱を振りほどいて家を飛び出すと、数日後に父親を連れて戻ってきた。母親は驚いて約束の件を父親に打ち明けると、父親は「どうして人間を獣類に嫁がせる事が出来よう」と述べたが、それを聞いた馬が暴れ出したため、父親は激怒して弓で馬を射殺して皮を剥いで晒しものにした。その数日後、娘が馬の皮の側を通った時、馬の皮が不意に飛び上がって娘に巻き付いて家から飛び出していった。10日後に皮は娘ごと桑の木に落ち付いて娘の姿は蚕に変化して糸を吐いてこの世に絹をもたらした。これによって娘は蚕女と呼ばれるようになるが、両親はとても悲しんだ。ところが、突然天から娘が例の馬を御しながら降臨を果たし、[[太上老君|太上]]が自分を仙嬪にして天上で長生させてくれることになったことを伝えて両親を慰めたと言う。
台湾の伝承では蔓性の植物である葛から芋が発生した、とあるが、葛は「蛇」を模している、ともいえる。死体を与えられると、葛は単独で芋を生む。また、台湾の河伯は巨人であり、巨大な蛇のような男根を持つ。とすると、この「巨人」こそが、世界を支える扶桑なのではないだろうか。ギリシア神話には世界を支えるアトラースという巨人が登場する。中国神話にも盤古という巨人が存在する。==== 四川における「蚕女(馬頭娘)」信仰 ====『太平広記』が引用した『原化伝拾遺』には続いて、蚕女の遺跡は[[広漢市|広漢]]に存在し、[[什邡市|什邡]]・[[綿竹市|綿竹]]・[[徳陽市|徳陽]]の人々が毎年[[宮観]]にある少女の塑像に馬の皮を着せて「馬頭娘」と呼び、桑や蚕を供えて祈る儀式があったという。また、徳陽には蚕女の廟や墓が伝わったとされているが、[[清]]の時代に洪水の影響で荒廃したと、[[同治]]13年([[1874年]])編纂の『徳陽県志』は伝えている。 == 参考文献 ==* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E9%A6%AC 蚕馬]** 袁珂 著/鈴木博 訳『中国神話・伝説大事典』(大修館書店、199年) ISBN 978-4-469-01261-3 「蚕女」「蚕女廟」「蚕馬」「馬頭娘」の各項目
== 関連リンク ==
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