鍛冶師のカーヴェ

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ペルシア人の移動経路
デラフシュ・カヴィアニ
Derafsh Kaviani

「鍛冶師のカーヴェ」は「エスファハーンの鍛冶師」とか「エスファハーンのカーヴェ」として知られている。[1][2][3]カーヴェは、冷酷な異国の王ザッハークに対する民衆の蜂起を指導したといわれる神話上の人物である。この物語は10世紀のペルシャの詩人フェルドウスィーによるイランの建国叙事詩「シャー・ナーメ」で語られている。[4]アヴェスター[5]の伝承によると、ザッハーク、より正確に述べればアジ・ダハーカは、人間というよりはバビロニアから来た悪魔であった。フェルドウスィーはこの神話的人物を邪悪な専制君主として描き直している。[6]

古い伝承によると、中部イランエスファハーン出身の鍛冶師カーヴェは、二人の子供をザッハークの蛇のために失ったため、異国の邪悪な専制君主に対して国を挙げての反乱に乗り出した。[7][8][2][9][10]カーヴェは異国の支配者を追い払い、純粋なイラン人による統治を再確立した。[9]

多くの人がアルボルズ山脈ダマーヴァンド山でカーヴェに従った。そこにはアーブティーンとファラーナクの息子フェリドゥーンが住んでいた。若いフェリドゥーンザッハークに対する反乱のリーダーになることに同意した。ザッハークはすでに首都を逃げ出しており、フェリドゥーンの軍隊に対する抵抗はわずかであった。フェリドゥーンザッハークに捕らわれていた人々を全て解放した。カーヴェはイランにおいて他国の専制君主に抵抗した人物として、ペルシャ神話の登場人物の中では最も有名な存在なのである。暴政への抵抗と団結の象徴として、カーヴェは槍の上に鍛冶師の皮のエプロンを広げた「デラフシュ・カヴィアニ」という紋章を掲げたとされている。[11]この旗は後に高価な宝石で飾られ、異国の侵略者との戦いにおける庶民の抵抗運動の象徴として用いられたのと同様に、ペルシア人の独立、暴政への抵抗、国土の回復の象徴ともされた。

1920年には、カーヴェの名が、ペルシャ社会主義ソビエト共和国(ギーラーン共和国)の州旗に描かれた。[12][13]

メヘレガンはフェリドゥーンザッハークに勝利したことを祝う祭であり、秋雨が降り始める時期に行われる。[14]

ヒルカニアのカーレーン氏族は、自らをカーヴェの子孫と称していた。[15]

私的解説・「ペルシア人」について

アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年~330年)がマケドニアアレクサンドロス3世に滅ぼされた後、現在のイランの地には複数の国家が誕生しては、また消えていった。まずは、それを順を追って挙げていきたい。

  1. アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年~330年):ゾロアスター教
  2. マケドニア王国(紀元前330年~312年):ギリシア的多神教
  3. セレウコス朝シリア(紀元前312年~63年)、アレクサンドロス3世の部下が興したギリシャ人の国家:ギリシア的多神教
    1. グレコ・バクトリア王国(紀元前255年頃~130年頃)、セレウコス朝の弱体化により、現在のアフガニスタン北部、タジキスタン等のあたりに誕生したギリシャ人の国家。:ギリシア的多神教
  4. パルティア(紀元前247年頃~後228年)、イラン北東部からヒルカニアにかけて興った、スキタイ系遊牧民の国家。セレウコス朝の弱体化により、バクトリア王国の辺縁地域に侵入定住し、そこから更に南下してイランに侵入してきた。ギリシア文化は保護した。:ゾロアスター教ミトラ教、ギリシア的多神教
  5. サーサーン朝ペルシャ(226年~651年)、パールス地方ゾロアスター教の神官階級より発生した。国教はゾロアスター教マニ教仏教ネストリウス派キリスト教などの新興宗教を排斥した。
  6. 正統カリフ(イスラム共同体、651年~661年):以降イスラム教
  7. ウマイヤ朝(661年~750年)
  8. アッバース朝(750年~1258年)
    1. サーマーン朝(873年~999年)、アッバース朝の元、イラン地方のイラン系太守が独立的に興した王朝
    2. ガズナ朝(955年~1187年)、サーマーン朝より半独立し、現在のアフガニスタンを中心に興った王朝

民族の興亡が激しい古代イランにおいて、アケメネス朝ペルシャマケドニア王国に滅ぼされた後には、紀元前100年頃までギリシャ人の支配が続いていた。このギリシャ人の王国群が弱体化した際に、イランの北東部からスキタイ系の遊牧民が侵入を開始し、そこから興った王朝がサーサーン朝である。サーサーン朝は宗教的にはアケメネス朝以来の伝統であるゾロアスター教を踏襲したが、アケメネス朝との文化的な連続性は乏しかったのではないかと思われる。スキタイ系民族の有力な家系であるカーレーン氏族はカスピ海の南岸にあるヒルカニアを領有し、ゾロアスター教以前からの民族固有の神話を誇っていたと思われる。
やがてイスラム教が興ると、イランも中東の他の地域と同じく、広域に渡る「イスラム王朝」の支配下に入るが、紀元後873年にイラン地方の太守であったサーマーン朝が独立的な立場を手に入れ、そこで民族意識の高揚と共に誕生したのが、民族叙事詩「シャー・ナーメ」であると思われる。スキタイ系の古神話をイスラム時代に併せて「英雄叙事詩」として焼き直し、国家と民族の象徴としたのである。すなわち、この時代の「ペルシア人」の中核を成す人々はスキタイ系の血を引く人々で、彼らがサーサーン朝の時代と同様に国家の上層部に君臨していたのではないだろうか。
古代世界においては、各民族にそれぞれの太陽神かつ先祖の神が少しずつ異なった名前で存在し、有力な氏族の神が多神教かつ他民族世界の頂点に君臨するという構造が各地にみられたが、宗教として民族を越えた普遍的なイスラム教を受容する時代に入ると、古き神々は「人間の英雄先祖」として書き換えられた形で、民族の独自性を誇ることに使われるようになったのだと思われる。
鍛冶師のカーヴェ(Kaveh)は、名前からみて古代世界における「Ker-Bar」と呼ばれた太陽神から変化したもので、本来の名を非常に良く残した存在といえる。山を神聖視して「神の拠り所」的な扱いをしているところにも、古い時代の太陽信仰の名残が覗えると感じる。興味深いことは、この神の子孫がカーレーン氏族(Karen)と呼ばれることで、こちらには「蛇」を意味する「n」の子音が末尾に付加されている。「Ker-Bar」の神の子が「Kar-n」として、月であろうと太陽であろうと「蛇神」に変更されているのだが、これは古代世界の人々がどのようにして「Ker-Bar」の神を「蛇神」におきかえていったか、という過程の一つをかいまみることができるように感じる。この場合は「Ker-Bar」の子神が「蛇神」であるとして、神の名を書き換えると共に、かつてはそのようにして自らの蛇神信仰を正統化していた民族であったことが分かる。彼らがイラン全域に拡がり「ペルシア人」を自称するようになったので、その象徴が鍛冶師のカーヴェとされるようになったのであろう。要するにイランの伝承における鍛冶神カーヴェの本来の姿は「スキタイ系パルニ氏族の祖神」であったと思われる。
また、もう一つ興味深いと感じる部分は「カーレーン氏族」という名である。古代エジプトの第2中間期(紀元前1782年頃~1570年頃)のあたりにパレスチナ方面から異民族の侵入と平行して、古代エジプト社会にもたらされた鷹の神はコロン(Choron)という。この神の名は「Ker-n」から変化したものと思われ、カーレーン氏族の名との間に連続性がみられる。要するに、第2中間期に古代エジプトに侵入した「ヒクソス」と呼ばれる人々と、スキタイ系遊牧民の氏族との間には、神の名に関して文化的連続性が認められると思われる。おそらく「カーレーン氏族」の先祖は、太陽神の子である「蛇の尾を持つ鷹神」だと彼らは考えていたのであろう。これがゾロアスター教時代にはフラワシと習合し、イスラム教時代に入ると「民族の英雄」として焼き直されたのだと思われる。また、バビロニアの暴君との苛烈な戦いの神話は、古い時代に彼らの先祖がメソポタミアの勢力と激しい衝突を繰り返した事実を投影しているのではないだろうか。
このような状況のため、おそらく「アヴェスター」におけるアジ・ダハーカと「シャー・ナーメ」における蛇王ザッハークの間には、直接の文化的連続性は乏しいのではないかと感じる。そのため、アケメネス朝時代のゾロアスター教は、多宗教に対して寛容であったが、より排他的な蛇神と習合したサーサーン朝ゾロアスター教は排他的な宗教へと変貌しているのではないだろうか。
また、国家の象徴とされる「デラフシュ・カヴィアニ」はアッカド楔形文字においてはパピルスを示す×と同じ形であり、蛇神信仰を思わせる紋としても興味深い。
また、蛇王ザッハークを倒して王となったフェリドゥーンには「3人の息子がいて、その内の一人に中国を治めさせた」という伝承があり、遠い昔に彼らの同族が中国を支配した事実があったことの古い記憶が伝承の中に残されているのではないか、とそのようにも思うのである。

関連項目

参照

  1. E. W. West.Sad Dar.Kessinger Publishing.p.50.ISBN 978-1-4191-4578-0. Retrieved 8 September 2012.
  2. 2.0 2.1 Muḥammad ibn Khāvandshāh Mīr Khvānd.History of the early kings of Persia: from Kaiomars, the first of the Peshdadian dynasty, to the conquest of Iran by Alexander the Great.Oriental Translation Fund of Gt. Brit. & Ireland. p. 130. Retrieved 8 September 2012.
  3. Sir John Malcolm.The History of Persia: From the Most Early Period to the Present Time.Murray. p. 13. Retrieved 8 September 2012.
  4. この叙事詩は、ペルシア人の王朝であるサーマーン朝(873年~999年)の詩人フェルドウスィーが君主に捧げる目的で作製したものである。そのため、叙事詩は神話的時代の物語から、彼らが始祖の王朝と考えるサーサーン朝(226年~651年)へと続く構成になっており、必ずしも史実どおりの歴史が語られているわけではない。ペルシア人の王朝のための、ペルシア人の国家を正統化し、称えるための叙事詩といえよう。
  5. アヴェスターとはゾロアスター教の根本経典であるが、散逸が激しく現在では当初の1/4程度しか残されていないと言われている。
  6. アヴェスター」のアジ・ダハーカは悪神アンラ・マンユの配下にある異形の竜の化け物とされている。一方、ザッハークは両肩から蛇が生えている異形の王として描かれる。この王は一度は暴君を倒して国を救うが、両肩の蛇が毎日二人の生きた若者の脳みそを要求するため、国家は暗黒と絶望の国へと転落してしまう。この邪悪な王を倒したのが、シャー・ナーメの英雄王フェリドゥーンとされているのである。
  7. Kaveh the Blacksmith, Persian Hero. Iran Daily. March 15, 2011. Retrieved 2012-09-08.
  8. Cyril Glassé;Huston Smith.The New Encyclopedia of Islam.Rowman Altamira. p. 219. ISBN 978-0-7591-0190-6. Retrieved 8 September 2012.
  9. 9.0 9.1 Afshin Marashi.Nationalizing Iran: Culture, Power, and the State, 1870-1940.University of Washington Press. p. 78. ISBN 978-0-295-98820-7. Retrieved 8 September 2012.
  10. Firoozeh Kashani-Sabet.Frontier Fictions: Shaping the Iranian Nation, 1804-1946. I.B.Tauris. p. 148. ISBN 978-1-85043-270-8. Retrieved 8 September 2012.
  11. この紋章は希に「ジャムシード王の旗」「フェリドゥーンの旗」「王旗」と呼ばれることもあるようである。
  12. これはイラン北部のギーラーン州ソビエトの支持を受けてイランからの独立を目指し、1920年6月~1921年9月の間存在した短期の国家のことである。最終的にはギーラーン州は再びイランに帰属することとなった。
  13. Persia (Iran): Short-lived states.Flags Of The World. Retrieved 2012-09-08.
  14. メヘレガンとはイランの秋祭り(収穫祭)で、その起源は紀元前4世紀以前に遡る。
  15. カーレーン氏族はパルティア時代から続くサーサーン朝の貴族であり、ヒルカニアを本拠地としていた。彼らの先祖は、本来はスキタイ系のパルニ氏族に属し、イラン北東の草原地域で遊牧生活を送っていたようであるが、アケメネス朝崩壊後にイランを支配していたギリシャ人の国家が弱体化すると、イランへの侵入を開始したようである。彼らが興した国家パルティアは、支配層と被征服民との階級差が明確であり、支配層は領地を経営しながら半遊牧的な生活を送っていた。

外部リンク

原文